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ペテロの第一の手紙4章

キリストのように,神の望むことを行うために生きる(1-6)
現実世界の中でキリストに従って清く生きるには、義、光で武装することが必要である。
1節 このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。
   「同じ覚悟で心の武装をしなさい」武装するὁπλίσασθε(hoplisasthe)は、ヨハネ18:3,2コリント6:7,10:4では武器ὅπλων(hoplōn)と訳されている。終末を前にして今なお罪の力と戦い続けている現在、義、光で武装することが必要である。「覚悟」ἔννοιαν(ennoian)は、ヘブル4:12 [1] の「志」と同じ。「同じ覚悟」とは、「キリストは肉において苦しまれたのであるから」と述べているように、罪に対する死の苦しみである。これはローマ6:10-11 [2] と同じである。したがって、前章3:18をうけて、冒頭の「このように」となる。私たちは現実世界の中で罪に苦しみ、罪の重荷にあえぐ。このような私たちのためにキリストは自ら死の苦しみを受けられたのである。この事実によって救われた者は、今、救い主と同じ志で武装し、罪と戦わなければならないということである。なぜなら「肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれた」からであるという。「のがれる」とは、「おさえる、とめる」の意味で、肉において苦しむとは、キリストが私たちの罪の生を終わらせ、新しく、善、義の生を起こしてくださり、その場所に立つことをさす。ローマ6:6-7 [3] では、これを罪のからだが滅び、罪から解放されたと述べている。これによって、キリストに対する信仰においてのみ「苦しんだ」、「のがれた」とすでに済んだことのように言える。「苦しむ」とは、なま身の体を持つ心に事実上の苦しみを受けることである。しかし、信仰においては、贖い主キリストに自分の十字架を負って従う事実でもある(ルカ9:23 [4] )。「肉」とは、なま身の身体的存在そのものであり、また古き人(ローマ6:6)といわれる罪人の自分をさしている。
2節 それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。
   クリスチャンの地上の生活は、「肉における残りの生涯」という。これは、キリストがすでにおこされた、私たちの罪を贖う犠牲の業によって、神の子として神の国に入るということが終末に成就することに対して、地上の生活は残りの生活として一日もおろそかにできないほどの価値をもっているためである。キリストの贖いの業の確かさと同じく、世の終末における成就も確かなものである。「きょう」と呼ぶ私たちの日々の生活は、その中間におかれ、キリストの福音に立つ神の支配の中にあって決定的な意味をもつ残りの生活である。したがって古い「人間の欲情」によって過ごしてはならないものであり、神のみ旨によって過ごすためのものである。
3節 過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
   古い人間の生活。「異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきた」これらは、過ぎ去ったものとして扱うべきものである。これらは古い人間の生活には繰り返して起こる。不信の意味を含む異邦人の「好み」とは、神のみ旨に従うべき時、または場所で、神のみ旨に従わず行動の目的、あるいは意志を人が自分だけでもつことである。それらいっさいは、このような欲情にとらわれ、己を神として礼拝する偶像礼拝に他ならない。気ままな、いまわしいほどに、神が人々を生かすためにたてた秩序を犯し、自ら己の生活を破滅に導く(ピリピ3:19 [5] )。新しい人とされていながら、これ以上どうしてこんな行為を続ける必要があるだろうかと、「もうそれで十分であろう」という。
4節 今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。
   不信仰な者たちは、今まで自分たちと同じ生き方をしていたのに、「今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらない」信仰者を見ると「驚きあやし」むばかりか、感情を害する。酒飲みの付き合いのようだ。今までの生き方にきっぱりけじめをつけて、別な生活を始める信仰者に、彼らは内にこもる感情を爆発させて「ののし」るのである。これは目の前の信仰者を越え、その背後にいる神に対してその栄光を汚す行為となる。
5節 彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。
   「生ける者と死ねる者とをさばくかたに」とは神である(1:17,2:23)。彼らは神に「申し開きをしなくてはならない」。
6節 死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
   死んだ者に対しては、審判はあり得ないとする人間の考えと異なり、罪人に対する神の審判は死の制限を超えてなされる。同時に神のあわれみの救いもまた死の制限をこえて宣べ伝えられる。前章18-21節では、死と復活の間にキリストが獄に囚われている霊どものところに宣教に行かれたと述べている。この霊どもとはノアの時代に神のみ旨に従わないまま死んだため、神の救いの計画を知らない罪人たちであるが、彼らにもキリストによって神のあわれみの救いの手が及んだのである。キリストはその際、善良な霊たちを霊界における宣教師団として組織され、現世において真の福音を聞かずに世を去った霊たちもまた、神の恵みの救いについて知ることができるようにされたのである。「彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きる」とは、すべての人間が死なねばならならぬように、彼らは死ぬ。信仰者にとって、真に生きるとは、神との新しい関係に立って、霊において主に従って生きることである。それは、宣べ伝えられた神の福音、すなわちキリストに対し信じ従うかどうかの責任にかかるのである。この意味で、「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」(ヨハネ5:25 [6] )とキリストはわれわれに真剣に目覚めるよう訴えておられるのである。

全てのものの終わりが近づいている(7-11)
しかしそれがいつ来るかわからない。
危機を知らされている者はどのように生きるべきか。
7節 万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
   「万物の終りが近づいている」終わりτέλος(telos)は、イエスの宣教第一声の「神の国は近づいた」と切り離すことができない。この「万物の終わり」は、自分で世界情勢や自然界の異変を分析判断して不安な気持ちで予感する人間社会の終焉とは質的に異なる。神の永遠の救いの計画における審判への過程であり、悔い改める期間を与え、その警告のために啓示されたものである。神の審判によるによる全歴史の破局と救いは、単に未来に横たわっているのではなく、すでに起こったキリストの贖いの死と復活で決定的となっている。すなわち「万物の終わり」は確かな約束の実現として確定されており、その成就は近づいているというのである。「心を確かにし」とは、周囲に異常な状況が起これば、不安になり適切な判断が困難になることがあるが、「万物の終わり」が神の計画の一部であることを教えられた信仰者は、冷静に判断しバランスのとれた心で生活せよということである。「身を慎んで」とは酒を飲む人が酒を慎んでいる時のように、正気の状態をさす。そして、心を確かにし身を慎むだけでなく、「努めて祈」ることが不可欠である。ここの祈りは、複数形προσευχάς(proseuchas)=prayersになっている。これは発生する出来事一つ一つについて神と話し、神のみ心に従えという意味である。
8節 何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
   「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい」危機的状況の中では互いに手を差し伸べる愛が必要である。特に信仰者にとって祈りが愛となって働く信仰の形をとる。「互の愛を熱く保ち」とは、たゆまず強くという意味で感情的なことではない。きびしい緊張関係の中で、自分のほうから手をさしのべていく熱意のある愛が「互の愛を熱く保ち」ということである。「愛は多くの罪をおおう」(箴言10:12 [7] )愛することによって、自分の罪がゆるされるということではない。すでにキリストにあって、ゆるしの事実として神に無限に無条件に愛されている時、信仰者の愛は、溢れるようにわき出て他の人々の罪をおおうということである。キリストの贖いによって神にゆるされているということと、それによる感謝が愛を運んでゆくのである。その信仰者の働きが罪人の罪をつつみ覆うことになる(ヤコブ5:20 [8] )。
9節 不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。
   旅をしている同じ信仰にある者を心から喜んで、神の家族、主にある兄弟として受け入れてもてなせと述べている。未知の人のために無料で宿を提供することは当時行われていたことで、積極的な愛の心ですることは、当時の社会に対するキリスト教会の大きな貢献の一つだった。
10節 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
   「それぞれ賜物をいただいている」個人に与えられた賜物には様々なものがある(ローマ12:6-8 [9] )。これらの賜物は、互いの奉仕のためささげられるべきであり、けっして私有化してはならない。神が様々な恵みを与えてくださったとき、最愛の独り子を賜った事実にすべてを基礎づけ、そこから生命をかよわせておられる。「恵みの良き管理人」賜物を管理し、神のみ心に従って用いようとする者は、まず自分自身をキリストに従わせ、キリストにあって他の人々のために救いに役立つ者なるように「互のために役立てる」べきである。この基本に立つとき、様々な恵みの賜物は、み心に従って役立てるように扱わなければならないことになる。
11節 語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
   「神の御言を語る」とは、神から委託された教会の第一義的な使命である。神の言葉を語る者には、それを語る賜物がすでに与えられている。「奉仕する者」には、神に代わって施し憐みなどを行う賜物がすでに与えられている。誰が語れて誰が奉仕するということは問題ではなく、そのための「神から賜わる力」はすでに与えられているので、恵みをそそぐ神の行為に「ふさわしく」行使することが重要だということだ。キリストが自ら語るように「神の御言を語」り、キリストが命を捧げるまで従順に神のみ心に従い人々に憐みを与えたように奉仕する。信仰者の生活の究極目標は神を賛美し証しすることで「すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるため」ということである。「栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように」力κράτος(kratos)には主権・支配・勝利の意味を含んでいる。新改訳聖書では「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように」と訳している。

クリスチャンとして苦しみを受ける(12-19)
これまでの苦難や危機に対する信仰者としての一般的原理的なすすめとは異なり、きわめて切迫した現実的な内容になる。
12節 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
   2:11と同じく、「愛する者たちよ」と呼びかけて新しい内容を告げる。「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬」次から次へと起こる試練の火に鍛えられる(箴言27:21 [10] )。ユダヤ的な終末待望の表現には、火が大きな役割を持っており、「火のような試錬」には約束の成就を待望する気持ちが含まれている。「何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむ」まったく予期しないことに出会って、不思議に思えてならなかったり、驚いてこれはおかしいと感ずること。信仰がうわべだけのもので、自分のための神に対する信頼に過ぎない時、火の試練を起きてはならないことのように驚きあやしむ。これは未経験からくる驚きではなく、誤った信仰の直感による意外さとしておこる感情である。努力を怠らない信仰者の生活に、必ずよい報いがあるはずだと期待する者には、火の試練は意外なものとなろう。一般に信仰を持つ理由として、肉体的精神的な病の治癒、家族や夫婦の円満、経済状況の改善など何か良いことが起こるからというものがある。しかし真のクリスチャンの信仰はそういうことを期待しない。むしろクリスチャンであるという理由で苦しみを受け(ヨハネ15:19-20 [11] )、その試練を克服することにより信仰が強められ、キリストの命にあずかることが救いであり約束の成就と信じるのである。当書簡が書かれた当時既にユダヤ人によるクリスチャンに対する迫害があったが、それをはるかに上回る大規模な迫害が皇帝ネロによってローマで起こっていた。その後、迫害が各地に拡大し、90年代には皇帝ドミティアヌスが小アジヤに対しても迫害の手を伸ばし、それが黙示録の七つの教会に対する黙示者ヨハネの記録を生むことになる。それからおよそ250年の間キリスト教会はローマによって迫害され続けたのである。つまり未だ迫害が拡大されていないときに「火のような試錬」が襲いかかると警告しているのだ。そして、そのような大迫害にあったときに「思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむ」な、それは予め想定されていることなのだからと教えているのである。
13節 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
   真の信仰によって神を信頼している時、信じて生きる主体は、厳密には信仰者にあるキリストご自身である(ガラテヤ2:19-20 [12] )。したがって、クリスチャンが遭遇する試練、苦しみは「キリストの苦しみにあずか」ることなのである。だから、「苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい」というわけである(マタイ5:11-12 [13] )。「キリストの栄光が現れる際」に、終末の約束として贖いの目的が成就し、キリストが永遠の生ける主として現れるとき、喜びにあふれることになる。今後、火のような試錬にあっても驚きあやしむことなくキリストにあって、その道を雄々しく歩めと教えている。
14節 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。
   信仰者は「キリストの名のためにそしられる」ことがある(マタイ5:11-12,10:22 [14] )。しかし、「あなたがたはさいわいである」という。そのわけは、「栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿る」からである。この神の霊は栄光と力の霊であり、それが定住の場所を得ることが、「宿る」ということである。前節で述べた「キリストの栄光が現れる際」、すなわちキリストの再臨を待たずに、キリストの栄光が御霊によって迫害を受けている人々に宿るのである。「栄光の霊、神の霊」が宿るこのような人々は真に「さいわいである」と言える。何故なら外的な理由によるものではなく、内的な確信からくる、朽ちることのない栄光の霊、神の霊だからである。
15節 あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
   聖書は殉教を神の前で功績あるものとみなすことを厳しく否定する。世において不正が行われ、不当な迫害が行われるとき、世の権力者に対して抵抗しなければいけないという誘惑が生じる。しかし、2:13-17で述べているように人の立てた制度に、主のゆえに従わなければならない。キリストに従う者が、世の制度に抵抗して「人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者」として懲らしめを受けるなら何の誉れもそこにはない。「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄」にもならない(2:20)。
16節 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
   信仰者は、ユダヤ人からはナザレ人と呼ばれ(使徒24:5)、異邦人からは「キリスト党の人」クリスチャノス(クリスチャン)と呼ばれた(使徒11:26,26:28))。クリスチャンという言葉は、当時不信者が信仰者を軽蔑して使った蔑称なのである。クリスチャンというだけで苦しみに会うのは、早くから直面したことであった。しかし、使徒をはじめ、信仰者は、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びつつ行動したのであった(使徒5:41)。このような立場から、「恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい」ということになる。「クリスチャンとして苦しみを受ける」時、イエスの御言葉は、大きな慰めとなる(ヨハネ15:18-21 [15] )。
17節 さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
   「さばきが神の家から始められる」と同じ出来事が、イエスの宮きよめのときに行われた(マタイ21:12-13 [16] ,マルコ11:15-17,ルカ19:45-46,ヨハネ2:13-17)。イエスの十字架の前に宮きよめが起こったと同じように十字架の犠牲の贖いの目的が成就する。終末がくるに先立って、「神の家」、すなわち教会から神の審判が始められるというのである。このような教えは、すでに旧約時代に語られた(エレミヤ25:29,エゼキエル9:6 [17] )。神はご自分の民が約束を守らないことや怠慢をさばかれるとき「まず、わたしの聖所から始めよ」と命じられる。「それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか」。この「始められる」は、神が最後の審判とよぶ決定的な出来事の最初の行為を始めることを意味する。信仰を持っている者たちでさえ、神の裁きがある。パウロは、罪もよい行いも後で明らかにされると教えている(1テモテ5:24-25 [18] )。このように信仰を持っている者でさえ裁かれるのだから、福音に反抗している者たちは裁きを免れることはないのである。このような者には個々の罪もあるが、信仰者を苦しめている迫害の罪もあり、これらの人々の「行く末」は滅びである。したがって信仰者は忍耐と希望を持ってすすまなければならない。
18節 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
   箴言11:31 [19] の七十人訳からの引用。「もし正しい者がこの世で罰せられるならば、悪しき者と罪びととはなおさらである」。正しい者がこの世で神の懲らしめを受けることがある。例えばダビデがバテシバとの姦淫の罪、そしてその夫ウリヤを殺す罪 によって、家の中に剣が離れなくなるという裁きを受けた。しかしダビデは神の憐みを信じ悔い改めに導かれ救いへとつながった(2サムエル11:2-12:15)。正しい者はこの世で報いを受けるが、信ぜず悔い改めないものは救われる可能性がない。
19節 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。
   「だから」と以上の結論として、信仰者が受ける不当な仕打ちを神に任せよと具体的なすすめがなされる。「神の御旨に従って苦しみを受ける人々」(3:17)、信仰者にとって神に従うことによる苦しみは、信仰の精錬となる。また神の赦しなしには、神にそむく人々が、どんなに信仰者たちを苦しめようと、信仰者の上にいかなる力をもふるうことはできないという確信が示される。信仰者の苦難は、主イエスに従う限り父が賜った杯なのである。だから、「善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい」善を行う生活の中で(エペソ2:10 [20] )、「自分のたましい」を神にゆだねよというのである。「ゆだねる」とは、資金の運用を信頼できる人に託することに用いられる語である。もっとも大切な神の資金とされた自分の「たましい」を真の創造者、しかも、キリストにあって保証付きで自分の所有者であると告げてくださるかたに「ゆだねる」者は幸いである。「たましい」とは、真の内的な生、すなわち人間として生かされているもっとも深い存在であり、人は信仰なしにはいつも魂は孤独である。信仰者はたましいをイエスにゆだね、日々の生活において、その深みから善を行う希望に生きるのである。それは十字架上で、たましいを天父の御手にゆだねたイエスに対するように、神は復活という創造的な力によって、キリストとともに私たちを生かしてくださるからである。

(2020/10/11)


[1]  ヘブル4:12
 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いととを見分けることができる。

[2]  ローマ6:10-11
  なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

[3]  ローマ6:6-7
  わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

[4]  ルカ9:23
  それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

[5]  ピリピ3:19
  彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

[6]  ヨハネ5:25
  よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

[7]  箴言10:12
  憎しみは、争いを起し、
  愛はすべてのとがをおおう。

[8]  ヤコブ5:20
  かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

[9]  ローマ12:6-8
  このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
     奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
  勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

[10]  箴言27:21
  るつぼによって銀をためし、
  炉によって金をためす、
  人はその称賛によってためされる。

[11]  ヨハネ15:19-20
  もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。

[12]  ガラテヤ2:19-20
  わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

[13]  マタイ5:11-12
  わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

[14]  マタイ10:22
またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

[15]  ヨハネ15:18-21
  もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。

[16]  マタイ21:12-13
  それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

[17]  エゼキエル9:6
   老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。

[18]  1テモテ5:24-25
   ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。 それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。

[19]  箴言11:31
   もし正しい者がこの世で罰せられるならば、
  悪しき者と罪びととは、なおさらである。
  LXX
  εἰ ὁ μὲν δίκαιος μόλις σῴζεται,
  ὁ ἀσεβὴς καὶ ἁμαρτωλὸς ποῦ φανεῖται;

[20]  エペソ2:10
   わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。