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ペテロの第一の手紙3章

主にある妻と夫の関係(1-7)
コロサイ3:18-19, エペソ5:22-33, 1テモテ2:8-15, テトス2:4-5
1節 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、
   2:13-18の国家や主人に従うのと「同じように」、夫と妻の関係も神のしもべとして生きる根本的態度が大切だと教えている。そこには妻の地位が奴隷と同じであるという人権無視の思想はない。ここでは、神のしもべとしての個々の妻のあるべき姿を教えている。「夫に仕えなさい」と結婚した女性がその夫とどう関係するかを示し、一般に女が男にどう関係するかというのではない。神の御子イエスは、父より劣っているのではなく、同等であり、同じ性質を持っておられた。しかし子が父に従うように、自分を御父の下に置くことによって一つになられた。このようにイエスは父に愛された独り子であり、その愛によって父なる神に従っているのである。「同じように」、妻は夫に仕え、「同じように」、夫も妻を愛することによって、主に従うのである(7節)。「たとい御言に従わない夫であっても」未信者の夫、夫の同意あるいは好意を得られないままに信仰生活する妻、また夫が信仰を迷信かのように考えている場合をさしている。また信仰者であるはずの夫が、実際はみ言葉に不従順である場合もある。
2節 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
   「無言の行い」は、1:15の「あらゆる行い」、2:12の「りっぱな行い」と同じように社会生活における日常的な行いであるが、「無言の」といっている。直接福音を口にしないが、福音を証しするような行いである。「救に入れられるようになるであろう」の原文(NA28では3:1の最後)のκερδηθήσονται(kerdēthēsontai)の英語による逐語訳は、they will be won overとなる。win 人overは、「最初はいい印象を持ってくれなかった(渋った) 人を味方に変える」というニュアンスがある。これを受動態未来形で使うことにより、福音を受け入れることを渋っていた夫たちは、妻たちの信仰のわざを通してイエスの教えの側に改心し、その結果神の救いの手が必ず夫たちを御国に迎えてくれるに違いないという強い確信を表している。なお、2017年版新改訳聖書と聖書協会共同訳では「神のものとされる」とwin overに近い翻訳になっており、原文の意向を伝えている。またこの節で重要なのは、夫は妻の「うやうやしく清い行い」を見て、救いに入ることができるようになるだろうという「無言の行い」の強い影響力である。妻は御言に対する証しのゆえに何とかして夫を改心させようと御言を説こうとするが、御言に従わず自分の権威に挑みかかっていると思っている夫には逆効果である。 では、何によってそのような夫は福音を知ることができるのか。それは妻の生き方(うやうやしく清い無言の行い)によってである。夫や子供を愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、夫に従順であれば、神のことばがそしられるはずがない(テトス2:4-5)のである。KJVでは、they also may without the word be won by the conversation of the wives; While they behold your chaste conversation coupled with fear.となっている。 文語訳(対象訳)では、「汝(なんじ)らの潔く、かつ恭敬(うやうや)しき行状を見て、言(ことば)によらず妻の行状により救いに入(い)らん爲(ため)なり。」と簡潔に述べている。
3節 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
   「外面の飾り」の飾りは、κόσμος(kosmos)を使っている。新約聖書では、コスモスは世界であり、罪の世を指している(ヨハネ3:17 [1] )。しかし古典ギリシャ語では装飾や天体の運行の調和と秩序ある動きを指す言葉である。すなわちここでは古典的意味で用いられているわけだ。化粧品に用いるコスメチックと同じく、「外面の」で形容すると外を装うこと、外観の美容を意味する。次節の「かくれた内なる人」と対照する。
4節 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
   「内なる人」καρδίας ἄνθρωπος(kardias anthrōpos)の直訳は「心の人」(hert man)である。心(カルデア)は、人が隠れておられる神に出会う場所ともいうべき所で、「かくれた内なる人」とは理性よりはるかに深奥の場で、全人格をもって神の前に立つ場合を指す。「柔和で、しとやかな霊」は単なるその人の性質ではなく、神の霊に「かくれた内なる人」として導かれている姿である。外(外面の飾り)と内(かくれた内なる人)の比較は「朽ちることのない」(1:4,23)で、人に見えるものと神にのみ見えるもの、朽ちるものと朽ちないものの比較になっている。この重要な点について、イエスは人々に広く教えておられる(マタイ6:1-18) [2]
5節 むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。
   「聖なる女たち」イスラエルの歴史の中で、主のために聖別されたことを示す婦人たちのことをこのように称した。彼女たちは皆「朽ちることのない飾り」を身につけていたのである。
6節 たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。
   「たとえば、サラ」(他にハンナなど)アブラハムをすべての信仰者の父とみるのに対して、サラを信仰深い女性たちの母とみなし、「サラの娘」という表現を用いる。「サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ」は、創世18:1-15の12節 [3] で「主人」と呼んだことを示している。ここは原文のNA28では「主」を表すκύριον(kyrion)を使っており、KJVではそのままmy lordと訳している。新約聖書では積極的にこれを信仰の明らかな表現とする(ヘブル11:11 [4] )。夫に仕えるとは、彼を主と呼ぶ意味になる行いで、夫のために生きることである。主に仕えるように夫に仕える(エペソ5:22 [5] )ことである。これは唯一の主がわれわれのためにしもべとなりたもうことから与えられる贈り物である。それゆえ、み言葉に従わない夫とともに生きる場合であっても、み言葉に従って夫のために生きることによって、はじめて真に夫に仕えることになる。「何事にもおびえ臆することなく善を行えば」予期しない恐慌が起こることがあっても、積極的に善を行えと勧める。これは妻が夫とともに経験し、あるいは夫によって起こされる様々な問題がありうることを示唆している。
7節 夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。
   「夫たる者よ」前節までの妻たちに関することは、夫たるものについても同様に当てはまる。「あなたがたも同じように、・・・知識に従って妻と共に住み」知識γνῶσιν(gnōsin)グノーシスは、当時、宗教、哲学、一般思想界で用いられた用語で様々な意味があった。ここでは神についての知識を根本に恵みと力を含めて用いられている。性や女性心理に関する知識にとどまらず、もっと根本的に神を知ることにより、人格として妻を正しく知り、神との交わりに基づいて妻との交わりを真実なものとするために「知識に従って」というのである。主にあって妻を尊重しうるとき、必要な一般知識は妻との生活に活用される。「女は自分よりも弱い器であることを認めて」器といっても女性を軽視する意味ではない(2テモテ2:21 [6] )。女性を自分より弱いとは、一般論として身体的な弱さを指している。「それは、あなたがたの祈が妨げられないため」ここで夫と妻とあわせて「あなたがた」と言っている。夫と妻が互いに尊敬し合い知識に従って生活することは、生活の基を祈りに求めるために不可欠な要素である。生活の根底に祈りが欠けると、「いのちの恵みを共ども」に受け継ぐ生活が゜くずれる。

主にある兄弟関係(8-12)
信仰者に求められる論理の要点。仲間をいたわり,平和を願う。
8節 最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
   「心をひとつにし」型にはまった一つではなく、自由な中に精神的態度として内的な一致をもつこと。パウロの「同じ思い」と同意義である(ローマ15:5-6 [7] ,ピリピ2:2)。「同情し合い」喜びも悲しみもともにすること(ローマ12:15 [8] )。そして思いやること(ヘブル4:15,10:34 [9] )。「あわれみ深くあり」εὔσπλαγχνοι(eusplanchnoi)新約聖書では愛や同情の最奥の感情に用いる。パウロがオネシモを「私の心」と呼んだが深い感情が込められたこの語が用いられている(ピレモン12)。「謙虚でありなさい」(ピリピ2:3 [10] )。人前で自分を卑下するのでなく、神の力強い御手の下に、自らを低く(5:6)することで、そこから他の人を高く評価するのである。
9節 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
   われわれは何のため召されたのか。ペテロは「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐため」と教えている。では受け継ぐことができる祝福とは何であろうか。言葉としての「祝福」そのものは幸福を喜び祝うことである。しかし私たちが召され、受け継ぐことを許される祝福は、すでに起こった現実であり、神が神のみ言葉であるイエス・キリストによって「よし」と宣言されたことである。それは死の断罪の中から救われ、命を与えられて神の前に生かされることである。この神の恵みの「よし」を自分の上に聞くことこそ、召しを信じて生きる者の現実である。その生活は「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報い」ることをしない。救い主への感謝を使命ゆえに「祝福をもって報い」、同じ恵みにあずかることを願うに至る。おそらく祝福しようとする時、よく言おうとし、それは祈りにおいて実践されるであろう。この短い一節にキリスト教に基づく倫理の根本的真理が示されている。
10節 「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
   10-12節は、以上のことを七十人訳の詩篇34:13-17 [11] を引用してまとめている。詩篇34:13は変えて引用している。
11節 悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
12節 主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。

正しいことのために苦しむ(13-22)
信仰者として積極的に祝福を受け継ぐ生活は、さまざまな世の出来事、人との関係において展開する。
13節 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
   前節の最後の「悪を行う者」に対して、「もしあなたがたが善に熱心であれば」と善を励む人が善ゆえに苦しむことがあることを十分知って言い出している(マタイ5:10-12,2テモテ3:12 [12] )。善とは生命の性質ではなく、『生命』そのものである。『善い』とは『生きる』ことである(ボンヘッファー「倫理」)。また、パウロの「わたしにとっては、生きることはキリスト」(ピリピ1:21)と言う意志が善である。この善に熱意をこめて生きるとき、いったい「だれが、あなたがたに危害を加えようか」。どんなに悪く扱われてもだめになってしまうことはないというキリストにある確信である。
14節 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
   「万一義のために苦しむようなことがあっても」これはイエス・キリストにおいて典型的な事実であり、歴史の中でくり返されてきた。このような出来事に出会っても「彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない」と励ます(イザヤ8:12 [13] )。「彼ら」とは善であるキリストに対する事実上の敵対者すべてをさしている。人はこのような敵対者や出来事に出会うと、精神的に苦しむ。だが、「あなたがたはさいわいである」と言う。なぜなら、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わった」からである(1コリント15:57)。
15節 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
   「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい」(イザヤ8:13 [14] )。心のなかでというのは、人に見られたり、単に沈黙をよしとするのでなく形式的な認識や外形だけの尊敬をキリストにはらうことを排して、心の底から全人格でキリストに従うことをすすめているのである(ルカ12:1-12 [15] )。「また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」望みは現実の生活の中に自然に現れる信仰のしるしの一つである。しかし、望みの源はわれわれの中にいるキリストすなわち栄光の望みである(1:3)。厳しい状況の中でなおキリストを証する突破口は、その人が主なるキリストにあって望みをもって生きるという事実である。同じ状況にあって悩む人々が、その人々と違って望みにあふれる姿に目をとめ、「説明を求める」時がある。それに対して説明でるようにしておきなさいと教えている。
16節 しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
   「しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」という。権威をもって自分を調べる人の前で弁明する時と同じく、責任ある答えをしなければならない。そのためには用意して待つ、賢い乙女たちのように備えがあり、権力を恐れず答えるべきだが、不遜と不信の態度に陥ることなく、「やさしく、慎み深く」行うべきである。これは、相手に対してばかりでなく、唯一の審判者が、愛と義をもって自分を生かしてくださっているという事実に励まされ、一方に主なる神をおそれ、他方に相手がキリストにあってともにゆるされて初めて生きうる身であることをおぼえつつとる態度である。「明らかな良心」とは主にあって神とともに知り行う真実をもって弁明せよとの意味で、厳正に主の命のまま現実となっているみ言葉語ることである。自己弁明でなく、罪人をゆるす主の恵みを弁明するのである。「そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう」。キリストにあって営んでいる生活とはキリストにあがなわれた共同体(教会)の一員として、かしらであるキリストに常に聞き従っている教会生活のことである。すなわちこれが「良い生活」である。「そしる」はルカ6:28に「はずかしめる」とあり、悪意にみちたののしりをさす。「ののしる」は激烈に非難し中傷することである。そのように人々もその行為を恥じざるを得なくなるであろうというのである。主なる支配者を見出し愛に生きる交わりの真実を知らされるに至るからである。
17節 善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
   ここでは2:20を一般化して述べている。
18節 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
   クリスチャンはその苦難を通して神に近づこうとする。「キリストも」われわれを神に近づけようとする。キリストの苦難によって、キリストの願いが可能となるといったほうが正しい。「近づける」とはつれてくることで、不信(罪)が神から離れていることであるのを思えば、神に近づくとは信仰の要点を示す一つの表現である。「自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために」言い換えれば義人が不義者のためにである。義人とは古くからメシヤに対して用いたものである。「ひとたび」ἅπαξ (hapax)で、キリストの苦難が究極的なものである点と、犠牲の動物が宮でくり返しささげられていた事実をはっきり区別して、キリストの十字架上の贖いの死が、二度とくり返す必要のない永遠に一度神自らなされた犠牲であることを示している。「罪のゆえに死なれた」キリストの死はわれわれの救いのための犠牲の行為である。ここの「罪」ἁμαρτιῶν (hamartiōn)が複数であることは重要である。「肉においては殺されたが、霊においては生かされた」イエスの死は一面では、地上的、時間的な殺されるという出来事として起こった。これは同じ地上生活をするすべての人々の罪をになって、義人が不義者のために神の前に自ら立たれたということである。「霊においては生かされた」霊が生かされたのは神によってであり、神の行為の領域の出来事として起ったことを示す。肉と死、霊と生が結ばれて表現されているとはいえ、イエスの体の復活を否定していない。イエスが生きられた事実とイエスの体そのものが霊的であることをさしている。
19節 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
   「こうして」は苦難と復活全体をさす。死と復活の間にイエスは「獄に捕われている霊ども」のところに宣教に行かれたのである。「獄」φυλακῇ(phylakē)は、捕虜や囚人のいる所をさす。「霊ども」は20節にあるようにノアの洪水の時に、洪水によって滅ぼされるべきであるとみられるほどの罪人、人の目には救いの望みがない人々をさす。これほどの罪人に対してもキリストの救いの力は深淵をこえて働くことを伝えている。キリストが地上にきたりたもうたと同じく、彼をすべての人々の救い主と宣言している表現である。「宣べ伝えることをされた」は、福音が審判を含んだゆるしの恵みを示す救いのメッセージであるから、その約束の成就を宣べ伝えたことと解せる。
20節 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
   「むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者ども」(創世記6:13 [16] )。「その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」創世記7:13によるとノア、その妻、三人の子とその妻たちを数えるとこうなる。
21節 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
   「この水は」と前節から受け継がれた言葉は水だけでなく、水を経て救われたノアの一族を型としている。そしてこれは「バプテスマを象徴するもの」である。イエスがルカ17:26-27に、人の子とノアを結んで自分におこる出来事を予告しておられるのも同様である。ノアとその家族が水による死から解放された出来事をバプテスマに相応する型とみるのである。「今やあなたがたをも救う」は前節の「むかし」に対して現在のバプテスマをさす。そのバプテスマの意味は「イエス・キリストの復活」にある。古い生は死んで、新しい生が始まる恵みを救いとして受けるのである。これは霊的な新生のしるしである。したがってバプテスマは「からだの汚れを除くことではなく」と注意する。イエスキリストの復活の一回性にふさわしく、新しく生まれる一回性を暗示して、バプテスマは一回だけのものである。そして「明らかな良心を神に願い求めることである」は、バプテスマの中で、改宗者が罪の許しを受け、内なるきよめ、神に従って生きる力を求める祈りをさしている。「明らかな良心」とは現実にあって神とともに知り、同時に共に行為することを許される恵みの自由をさしている。バプテスマは、問題の中にありながら、罪責の重荷から解放され、キリストにあって神の光と力に満たされて生きるための聖霊の賜物をもたらす。
22節 キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
   明らかな良心、すなわち神とともに知り、神とともに行動することを許されるのは、復活のキリストが、今、全歴史にわたる主、生ける支配者でいますとの信仰に根差して与えられる。「キリストは天に上って神の右に座し」は、キリストが神の持つすべての主権と力とを持つ神の職務の執行者であられることを示している。この表現は、東洋、エジプトの宮中の光景を想像して表現しているともいわれる。王が自分の右に立った代理者に職務を執行させる時のように、異教世界では王が神の右に立って、世界に対する関係で神の権威と力をになった者とし、彼自身の神性と職務の権威を認めることを要求した。この異教性をまったく否定して、真の神の独り子が神であることをやめたもうことなく真の人として十字架につき、復活して、神の右の座に立つとは、イエスを主と証した信仰者が、詩篇110:1の「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」を媒介にして、王なるキリストを賛美している表現である(使徒行伝2:33-36,5:29-32 [17] )。「天使たちともろもろの権威、権力を従えておられる」キリストにおいて、すでに決定的勝利は打ち立てられ、権威、権力は従えられているという。しかし、われわれの日常体験においては反対に依然として、悪の力が支配的と感じる。この点について聖書は、信仰の目をキリストに向けさせ、終末を待ちつつ「そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである」(コロサイ2:15)と教えている。さらしものにされた「彼ら」悪の力が自分をどう見ようが、われわれは勝利者キリストの光において悪魔的な力と戦い続けなければならない。
   
(2020/09/28)


[1]  ヨハネ3:17
  神が御子をにつかわされたのは、をさばくためではなく、御子によって、このが救われるためである。
  οὐ γὰρ ἀπέστειλεν ὁ θεὸς τὸν υἱὸν εἰς τὸν κόσμον ἵνα κρίνῃ τὸν κόσμον, ἀλλ’ ἵνα σωθῇ ὁ κόσμος δι’ αὐτοῦ.

[2]  マタイ6:1-18
  自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
  だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
  また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
     天にいますわれらの父よ、
     御名があがめられますように。
     御国がきますように。
     みこころが天に行われるとおり、
     地にも行われますように。
     わたしたちの日ごとの食物を、
     きょうもお与えください。
     わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
     わたしたちの負債をもおゆるしください。
     わたしたちを試みに会わせないで、
     悪しき者からお救いください。
  もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
  もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
  また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
  それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

[3]  創世記18:12
   それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。 
   KJV
   Therefore Sarah laughed within herself, saying, After I am waxed old shall I have pleasure, my lord being old also?

[4]  ヘブル11:11
   信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。

[5]  エペソ5:22
   妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。

[6] テモテ2:21
   もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられたとなって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。

[7] ローマ15:5-6
   どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

[8]  ローマ12:15
   喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

[9]  ヘブル10:34
   さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。

[10]  ピリピ2:3
   何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。

[11]  口語訳 詩篇34:13-17
  34:13あなたの舌をおさえて悪を言わせず、
    あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。
  34:14悪を離れて善をおこない、
    やわらぎを求めて、これを努めよ。
  34:15主の目は正しい人をかえりみ、
    その耳は彼らの叫びに傾く。
  34:16主のみ顔は悪を行う者にむかい、
    その記憶を地から断ち滅ぼされる。
  34:17正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、
    彼らをそのすべての悩みから助け出される。

   七十人訳(LXX) カッコ内英訳(Brenton)
   13 παῦσον τὴν γλῶσσάν σου ἀπὸ κακοῦ,
    καὶ χείλη σου τοῦ μὴ λαλῆσαι δόλον.
    (Keep your tongue from evil,
    and your lips from speaking guile.)

   14 ἔκκλινον ἀπὸ κακοῦ καὶ ποίησον ἀγαθόν,
    ζήτησον εἰρήνην καὶ δίωξον αὐτήν.
    (Turn away from evil, and do good;
    seek peace, and pursue it.)

   15 ὀφθαλμοὶ κυρίου ἐπὶ δικαίους,
    καὶ ὦτα αὐτοῦ εἰς δέησιν αὐτῶν.
    (The eyes of the Lord are over the righteous,
    and his ears [are open] to their prayer:)

   16 πρόσωπον δὲ κυρίου ἐπὶ ποιοῦντας κακὰ,
    τοῦ ἐξολεθρεῦσαι ἐκ γῆς τὸ μνημόσυνον αὐτῶν.
    (but the face of the Lord is against them that do evil,
    to destroy their memorial from the earth.)

   17 ἐκέκραξαν οἱ δίκαιοι, καὶ ὁ κύριος εἰσήκουσεν αὐτῶν,
    καὶ ἐκ πασῶν τῶν θλίψεων αὐτῶν ἐρρύσατο αὐτούς.
    (The righteous cried, and the Lord listened to them,
    and delivered them out of all their afflictions.)

[12]  マタイ5:10-12
  義のために迫害されてきた人たちは、
  さいわいである、
  天国は彼らのものである。
  わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
  2テモテ3:12
  いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。

[13]  イザヤ8:12
  この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。

[14]  イザヤ8:13
  あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。

[15]  ルカ12:1-12
  その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。

[16]  創世記6:13
  そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

[17]  使徒行伝2:33-36
  それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
    『主はわが主に仰せになった、
    あなたの敵をあなたの足台にするまでは、
    わたしの右に座していなさい』。
  だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

  使徒行伝5:29-32
  これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。