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ペテロの第一の手紙2章

神の言葉を強く求める気持ちを育む(1-3)
1節 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
   この節の「捨てて」と次節の「慕い求め」で、救いの障害となるものと必要なものを対比している。福音によって新しく生まれた者として、「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口」という古い人間の生活の一切のマイナーな諸相を破棄せよという。「捨てて」はKJVでは、laying asideと訳している。
2節 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
   古い人間の邪悪な行動を取り除いて、「霊の乳」を「慕い求め」るように勧める。福音を知った今は、無知に求めるのではなく、健康な乳飲み子が空腹なら乳を求めるように「混じりけのない霊の乳」を求めるはずである。それはごまかしの異物や添加物が入っていない純粋な霊の乳である。ここの「霊」はλογικὸνで、ロギコスはローマ12:1で「霊的な礼拝」(τὴν λογικὴν λατρείαν)でも使われている。ロゴスを理性的な意味合いにとって霊的を合理的なとしてはこの節の真意が伝わらない。福音の真理に基づく御霊による生命の糧こそ霊の乳ということである。
3節 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
   「主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知った」は詩篇34:8 [1] からの引用。乳を味わうことができるように、主の恵みは恵みを味わい知ることが許される。そして「すでに味わい知った」今はそれによって「おい育ち」、「救に入るようになる」のである。霊的に成長し、全き人となること、これが救いの成就である。

生きた石が,聖なる力によって建てられている新しい霊の家を構成する(4-10)
4節 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
   「主は、人には捨てられたが」詩篇118:22 [2] を参照している。人は試してみて価値を判断した上で用いることをやめ捨てる。イエスに対しても、人はそういう捨て方をした。しかし、「神にとっては選ばれた尊い生ける石」(イザヤ28:16 [3] )である。原文のここの石はペテロス(πέτρες)ではなく、用材の石リソス(λίθον)になっている。しかもそれは「生ける石」で、人がその石を用いる時はそれは死んだり朽ちたりすることがない。神はイエス・キリストを命を持つ永遠なものとして、永遠の生命を与える尊い器とされたのである(使徒2:23-24,4:11-12 [4] )。
5節 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
   「霊の家」が形成されるために「この主」のみもとにきてしっかり留まれと勧める。「築き上げられ」は原文では現在分祠οἰκοδομεῖσθε(are being built up)になっており、繰り返しキリストに行くというニュアンスがある。つまり、主のもとに繰り返し行くことと、堅くとどまることの両方が大切だということである。聖なる神に人々をとりなすために仕える祭司は「聖なる祭司」でなければならない。霊の家で、祭司の務めであるいけにえをささげる行為は儀式的なものではない。「霊のいけにえ」とは、神への感謝として社会に対する奉仕の生活をささげることと解釈すべきである。このような「イエス・キリストにより、神によろこばれる」教会のささげものは、キリストを生ける主、み言葉、かしらとして教会が自分の全体をキリストのからだのように、またかしら石の下にある建物全部のように捧げ用いることである。したがって、社会における福音の実践という全生活の一部にとどまらず、生ける福音を信じるクリスチャンそのものを総括して「神によろこばれる霊のいけにえ」といえよう。
6節 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
   「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く」主なる神の言葉としてイザヤ28:16を引用している。「尊い」ἔντιμος(entimos)は高く評価される、貴重なものを意味し、栄光にみちたの意味が強いが、引用聖句での意味は「高価」である。神はイエス・キリストを救いの基としてすえられたが、それは神にとっていかに貴重なものであったか、神に知らされてはじめて人が知る性質のものである。「隅のかしら石」は土台のすみにすえられる大きな石とみるよりは、石造りの家で、建っているすべての柱、壁をかたく結び合わせ、上からつかんでいる形での「かしら石」である(エペソ2:20-21)。そしてその堅固なかしら石に対する信頼をおく者は、「決して、失望に終ることがない」と約束している。
7節 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
   ここの「尊いもの」は4節、6節と違って、「より頼んでいる」信仰者にとっては栄誉あるものである。霊の家の形成のため、かしら石に結ばれて用いられるので、神がかしら石与えた栄誉にわけあずかるのである。「不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」」は詩編118:22の引用。「家造りら」とは、イスラエルの指導者たちをさしているが、広い意味では積極的に人生を戦い取り、歴史形成にはげむ人々をさす。
8節 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
   「つまずきの石、妨げの岩」はイザヤ8:14 [5] の引用。世は多くの惑わし誘惑、困難な出来事に満ちている。「御言」はこの荒海を乗り越えるために必要な指針となるが、誰であろうとこれに従わないときはいとも簡単につまづいてしまう。「かれは、実は、そうなるように定められていた」という。「かれらは、・・定められていた」(ἐτέθησαν = they were appointed.)の「定められていた」は、6節の「わたしは・・置く」(τίθημι = I lay)の「置く」と翻訳された語の不定過去形で、キリストが選びの器、尊いかしら石として置かれたように、神の深いみ旨を示してる。そのことから、「つまずく」ように「定められていた」と読むべきで、「従わないから」そうなるように「定められていた」と読むべきではない。つまづきも神の深いみ旨の中にあるのである。このことについてはパウロもローマ9:14-18,11:28-36 [6] に書いている。つまづきを避けることのできない宿命的なものではなく、御言に従わなければ必ずつまずくということである。怒り、苛立ち、無視、侮蔑、不信など、つまづく人々がいるという現実を神はすでに知っておられるということだ。
9節 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
   「あなたがたは、選ばれた種族」ここでは選びが種族として教会全体に用いられている。「祭司の国(バシレイオン・ヒェラテウマ)」(βασίλειον ἱεράτευμα = a royal priesthood)には二つの解釈がある。バシレイオンを名詞とするか形容詞とするかによって異なる。1)名詞とする場合は、七十人訳でバシレイオンを主権性、君主制、宮殿を意味する名詞として扱ったことを根拠としている。BC400-100のギリシャ語の語の順序では、形容詞が後にくるのが普通であった。この例として出エジプト19:6の「祭司の国」の訳がある。2)形容詞としてバシレイオンを王の、王としてと扱い、バシレイオン・ヒェラテウマを「王なる祭司」と訳した文語訳の例がある。出エジプト19:6をこの考えで解釈すると王として責務の中の祭司的役割を指すことになる。この第一の手紙が書かれてた時代は皇帝礼拝が行われ、王の祭司性がローマ帝国内に広がっていた。起源において、祭司職と王であることは分離できず、祭司の務めは王の第一義的なものであった。そして、実際の祭式を執行する職業化された祭司は、王の代理を行うという制限的なものであった。本来は王にだけ、社会に対する祝福の根源である神の力をもたらす責任があった。王なる祭司性は究極のものだったのである。聖なる共同体である教会は現世における全世界との関係では支配しないが、すべての人々に神の力と祝福を媒介するという意味において「王なる祭司」であるべきである。クリスチャンは、キリストとともに祭司性と同様にキリストの王権にあずかっている(ゼカリヤ6:13,黙示5:10 [7] )。 「神につける民」とは単に属するだけでなく、存在の究極目的を神に所有されている事実に見出す人々のこと。すなわち神のみ業に生きる事実によってほかのものと区別される共同体である [8] 。「暗やみから驚くべきみ光に」異教からキリスト教への改宗、あるいは異教的信仰から本来の信仰への改宗を指す。「語り伝える」行いによる沈黙のあかしではなく、公に宣べ伝えること。
10節 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
   イスラエルが神を拒み遠く捕囚の民となっている時代、神はそのように彼らを引き離したが、再び神の民として引き戻すという神のおどろくべきあわれみのみ業を述べたホセア書から引用している。それを引用したローマ9:25-26 [9] が分かりやすい。一旦神から離れていたユダヤ人は、イエスを知ったことにより、真実に神の民となることができた。そして最初から神から遠く離れていた異邦人もまたイエス・キリストによってあわれみを受け神に近づくことができたのである。

異邦人の中で寄留者として生活する(11-12)
自己訓練の理由
11節 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
   愛を中心とする信仰生活の中で、すでに伝えられている福音を思い起こさせ、それとの関連で要約して、行動すべき指針を勧める時に「愛する者たちよ」とよびかける。この世のわれわれはいつまでも続くのではない「旅人であり寄留者」である(1:17)。「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」の「たましい」は肉体に対する霊のことではなく、この世の旅人であり寄留者である間、人として生きる場合の本質的な存在、真実な生そのものをさす。「戦いをいどむ肉の欲」は自己中心の生き方から出る意欲一切を指す。
12節 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
   「りっぱな行い」とは、その行いを見ると自然に好感を持ち、自分もしたくなる美、品位、魅力のある行為で、日常的な付き合いや会話の中での動作をさす。こういった行いを不信仰者が見た場合、ほんとうの洞察と理解がおこらないかぎり「悪人呼ばわり」がいくらでもおこるだろう。しかし「・・・を見て」という新しい洞察がおこると「神をあがめる」ようになる。すなわちこの「・・・を見て」とは、単に対象物を視覚的に認識することではなく、言葉では表現できない啓示のしるしを喜びと賛美をもって知ることで、霊的な洞察のことである。「おとずれの日」は神の審判の日(イザヤ10:12,エレミヤ6:15,10:15)、あるいは、キリストによって神が最終的な救いを与えることをさす(ルカ19:44)。

聖なる生活を送ること(13-25)
国家について(13-17)、僕についての理解(18-20)、キリストにならって(21-25)
13節 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
   「すべて人の立てた制度(πάσῃ ἀνθρωπίνῃ κτίσει)」立てた制度(κτίσει = ktisei)を造ったものと直訳できる。ktiseiクティセィは人が造った都市の基礎的制度に用いるギリシャ語の常用語だった。パウロと異なりペテロの手紙では、国家を神の定めたものとして、その機能に重点が置き、そのため「主のゆえに従いなさい」というわけである。共同社会のためには個人的なことを犠牲にすべきだというのとは違う。権力への盲従ではなく、キリストが究極の権威をもつ王の王と知るゆえに従うということである。「従いなさいὙποτάγητε(Hypotagēte)」には、いつも従えというより服従の決断をせまるニュアンスがある。こうせよという規則ではなく信仰の決断をせまるのである。信仰者は、主を離れて人の立てた制度を神聖視する権力の背後にある悪魔的な力の働きを見ぬく。しかし、そこで行使される権威を全く罪悪視するわけではない。重要なのはキリストが創造主であり、すべての被造物と同じく、人の立てた制度も主において存在の意味があり、主に仕えるためにおかれているということである(コロサイ1:16,2:15 [10] )。
14節 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
   したがって、「主権者としての王であろうと、・・・王からつかわされた長官であろうと」違いはないのである。「悪を行う者を罰し善を行う者を賞する」政治的権威は社会秩序を維持していくために大切な要素である(ローマ13:3-4 [11] )。
15節 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
   このように政治的権威に従う理由は、「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じる」ためである。「無知なἀγνωσίαν(agnōsian)」与えられる知識に対し心を閉ざして拒む人の心には、無知で道徳的非行が潜んでいる。この思いからさまざまな発言がなされるとき、その発言には、自ずと自己を義としようとする性質がある。この神に逆らう愚かな発言を、言葉だけでなく善を行うことで封じるのである。これこそ「神の御旨」であるという。善とは結局人がキリストの福音の下で生きるようになること。この善を行うことは、キリストにあって神が認め、神のみ旨の遂行とみなされる。
16節 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
   「自由人にふさわしく行動しなさい」キリストによって解放された自由人にふさわしく、しかもキリストに導かれ、彼に従う「神の僕」として行動せよという(ローマ6:15-18 [12] )。「自由をば悪を行う口実」として用いることは、キリストによって自由にされた僕にふさわしくない。仕えるふりをして利用する偽善はゆるされない(ガラテヤ5:13 [13] )。
17節 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
   これは社会人としての心構えである。人と兄弟たちの二つは人格尊重に結ばれる。神と王の二つは権威の尊重の点に結ばれる。
18節 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
   「僕たる者よ」οἰκέται(oiketai)奴隷や家僕を複数で呼びかける。「心からのおそれ心からのおそれ」どんなことでも意味で、心からのと訳され、「おそれ」は1:17と同様に畏敬の思い。「善良で寛容な主人」にはそれが自然に尊敬できるが、そういう主人だけにでなく、「気むずかしい主人にも、そうしなさい」という。「気むずかしい」とはつむじ曲がりの、ひねくれたという意味。当時の使徒たちは人の世界の奴隷の存在という現実に対して、根本的な救いの力を我々のために奴隷となりたもうた救い主に見出していた。奴隷制度の現実を容認するものではなく、希望を持って戦うことに責任を感じなければならない。ピレモンへの手紙に書かれている奴隷オネシモがパウロの下で改宗し、後にエペソの司教になったという話がある。推測の域を出ないが、信仰の下では主人と奴隷の差はないということだ。
19節 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
   奴隷制度が社会正義上問題とならなかった時代には、人はその財産である妻、子、奴隷に何をしても不義として取り上げられなかった。そのような思想に逆らい、ここではしもべに対する主人の行為に「不当」がありうることを公言する。この「不当な苦しみ」を受ける時、ただあきらめや隠れた怒りで耐えるだけなら、何らよみせられることはない。問題は「神を仰いで」διὰ συνείδησιν Θεοῦ (dia syneidēsin Theou)である。逐語訳は「神への良心によって」for sake of conscience toward Godとなる。神のみ前で神の意志を知ることを考えれば良心とは神に対する精神的なめざめという意味になる。または神と心の深みで関わりを持つ良心のゆえに、たとえ人を喜ばせないにしても神に対して善をなし、神を喜ばせようという心との意味ともとれる。この二つの解釈を合わせて良心の意味を表現すると「神を仰いで」となる。「よみせられる」日常会話で使われることがない言葉、恵みの意味で神がほめてくださる場合のことである。
20節 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
   「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか」罰を受け、忍耐しても何ら誇るに足るものではない。よみせられるとすれば、「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいる」場合である。その理由が21-25節に示される。
21節 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
   「キリストも、・・・模範を残された」キリストの苦難は、ただ時の権力者から無理解と不当な扱いをうけて、もし人が同じような苦難をうけるときは、こう忍耐するのだという模範を残されたのではない。彼の苦しみは、「あなたがたのために」というように今日のわれわれのためなのである。彼が時の権力者に裁かれ、処刑されたのは不当の限りであるが、我々が神の審判を受けるのことは正当である。神の正当な審判と恵みのゆるしを我々の上に起こそうとして、キリストは不当な苦難を進んで受け忍ばれたのである。それは神の永遠の計画において必然であった。「御足の跡を踏み従う」時には、キリストの出来事の意味が自分にとってどんなことであったのかを、信仰の深みで認識することが大切である。
22節 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
   七十人訳(LXX)イザヤ53:9 [14] からの引用
23節 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
   「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」七十人訳(LXX)イザヤ53:7 [15] からの引用
24節 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
   「わたしたちの罪をご自分の身に負われた」罪を負う(イザヤ53:12)は、罪の結果をひきうけること(民数14:33 [16] )。「ご自分の身に」罪の救いの業が、我々とすべてをともにされたキリストの人間性の領域と条件のもとに成就されていることを強調している(コロサイ1:22 [17] )。「十字架にかかって」神にのろわれる者となられたこと(申命21:22-23,ガラテヤ3:13 [18] )。「罪に死に、義に生きるため」(ローマ6:10-14 [19] ,18-19)キリストの贖罪の目的を示す。「その傷によって、あなたがたは、いやされた」(イザヤ53:5 [20] )傷は打たれ血がふき出る傷のこと。キリストによる罪のゆるし、罪人の義認は、神の独り子の死によって罪人を死より生かす逆説的事実であることを示している。
25節 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
   イザヤ53:6。前節ではキリストの贖罪の「わたしたち」に対する意義を述べたが、ここではふたたび「あなたがた」に帰り、奴隷の現実に引き戻している。羊のように「さ迷っていた」と今の今まで続いてきている現実を示している。「たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰った」羊が羊飼いのもとに帰る行為。ルカ15:17以下の父のもとに帰る息子の行為をさしている。

(2020/09/06)


[1]  詩篇34:8
  主の恵みふかきことを味わい知れ、
  主に寄り頼む人はさいわいである。

[2]  詩篇118:22
  家造りらの捨てた石は
  隅のかしら石となった。

[3]  イザヤ28:16
  それゆえ、主なる神はこう言われる、
  「見よ、わたしはシオンに
  一つの石をすえて基とした。
  これは試みを経た石、
  堅くすえた尊い隅の石である。
  『信ずる者はあわてることはない』。

[4]  使徒4:11-12
  このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

[5]  イザヤ8:14
  主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。

[6]  ローマ9:14
  では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
  そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、

  ローマ11:28-36
   福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
   ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
   「だれが、主の心を知っていたか。
   だれが、主の計画にあずかったか。
   また、だれが、まず主に与えて、
   その報いを受けるであろうか」。
   万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

[7]  黙示5:10
  わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう。

[8]  マラキ3:17
  「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

[9]  ローマ9:25-26
  それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
    「わたしは、わたしの民でない者を、
    わたしの民と呼び、
    愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
    あなたがたはわたしの民ではないと、
    彼らに言ったその場所で、
    彼らは生ける神の子らであると、
    呼ばれるであろう」。

[10]  コロサイ1:16
  万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
  コロサイ2:15
  そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

[11]  ローマ13:3-4
  いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。

[12]  ローマ6:15-18
  それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となった。

[13]  ガラテヤ5:13
  兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

[14]  イザヤ53:9
LXX
  καὶ δώσω τοὺς πονηροὺς ἀντὶ τῆς ταφῆς αὐτοῦ καὶ τοὺς πλουσίους ἀντὶ τοῦ θανάτου αὐτοῦ· ὅτι ἀνομίαν οὐκ ἐποίησεν, οὐδὲ εὑρέθη δόλος ἐν τῷ στόματι αὐτοῦ.
  KJV
  And he made his grave with the wicked, and with the rich in his death; because he had done no violence, neither was any deceit in his mouth.
  口語訳
  彼は暴虐を行わず、
  その口には偽りがなかったけれども、
  その墓は悪しき者と共に設けられ、
  その塚は悪をなす者と共にあった。

[15]  イザヤ53:7
  LXX
  καὶ αὐτὸς διὰ τὸ κεκακῶσθαι οὐκ ἀνοίγει τὸ στόμα· ὡς πρόβατον ἐπὶ σφαγὴν ἤχθη καὶ ὡς ἀμνὸς ἐναντίον τοῦ κείροντος αὐτὸν ἄφωνος οὕτως οὐκ ἀνοίγει τὸ στόμα αὐτοῦ.
  KJV
  He was oppressed, and he was afflicted, yet he opened not his mouth: he is brought as a lamb to the slaughter, and as a sheep before her shearers is dumb, so he openeth not his mouth.
  口語訳
  彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
  口を開かなかった。
  ほふり場にひかれて行く小羊のように、
  また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
  口を開かなかった。

[16]  民数14:33
  あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。

[17]  コロサイ1:22
  しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。

[18]  ガラテヤ3:13
   キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

[19]  ローマ6:10-14
   なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

[20]  イザヤ53:5
  しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
  われわれの不義のために砕かれたのだ。
  彼はみずから懲しめをうけて、
  われわれに平安を与え、
  その打たれた傷によって、
  われわれはいやされたのだ。