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ペテロの第一の手紙1章

あいさつ(1-2)
1節 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
   「イエス・キリストの使徒ペテロ」は、イエス・キリストによって立てられ、送られ、イエス・キリストに仕える者として、イエスの福音を宣べ伝える権威と使命を持つものであることを示す。ペテロはイエス・キリストによって立てられ、イエス・キリストに仕える者として、イエス・キリストを宣べる権威と使命を持つものである。ポント以下の地名は一世紀の地中海地域を示す。「ポント」は黒海の南岸。「ガラテヤ」は小アジの中央部。「カパドキヤ」はガラテヤの東、ポントの南。「アジヤ」はガラテヤの西、エペソ、スミルナなど名高い都市、海を越えアカヤ、マケドニヤ地方に対している。「ビテニヤ」はポントの西、アジアに接する地方でポントと合わせてローマの一行政地区とされていた。これらの地名の順に当書簡が回覧されたと考えられる。「離散し寄留している人たち」(KJV: the strangers scattered)は、原文では「離散し寄留している選ばれた人たちへ」(ἐκλεκτοῖς παρεπιδήμοις διασπορᾶς)となっている。「離散し」は「まき散らされた」の意味。政治上の理由から強制的にされた人々。すなわち今日の難民に近い。ユダヤ人はその土地で生計を立て、産業に従事し、各地で優勢となっていた。しかし、精神生活はどこまでもエホバと律法から離れることができず、宮で礼拝し、律法を学び、エルサレムを訪れることを喜びとしていた。「寄留している人たち」は法的に市民権を持たない。「選ばれた人たち」イスラエル人の歴史の上で離散した人々が他国人として生活したように、国籍を天に持ち、地上の生活を一時的なものとする。それは外的事情により、その場限りの無責任な生活をすることではない。神に選ばれた(申命14:2 [1] )ということに全生活を集中する態度である。したがってユダヤ人のみでなく、信仰によって主キリストの召しを受け、新しいイスラエルの民として生活する限り、異邦人もこの群れの中に含まれる(ヘブル11:13-16 [2] )。
2節 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
  「父なる神の予知されたところによって」神の予知は本来人格に対して用いられ、神の主権に基づく自由な恵みによる支配を意味する。例えばエレミヤ1:5 [3] で神の予知がエレミヤという一人格を対象に働き、彼を聖別し任命して預言者として召している。ローマ8:29-30 [4] では、神の予知が予定、召し、義認を経て、究極的な栄光まで通じている。ローマ11:2以下では、神の予知は個人を越えて神の選びとして民に向けられていることを教えている。また、真のイスラエルとして教会は、神の予知による恵みに基を見出している。地上では弱い群れ、無保証の状況におかれているにもかかわらず、教会は神のみ旨の実現のためには、神にかたく守られ、世にあって主なるキリストに奉仕を許される。この奉仕はしばしば困難な戦いであるが、国籍を天に持つ特権によって教会は慰められ、使命を新しく自覚する。教会は予知から出発する神の保証を持つ。「御霊のきよめにあずかって」神の保証は、御霊のきよめにあずかることによってなされる。きよめとは聖霊が信仰者にそそがれ、生活の中できよめていく力、または神に献身して生きる結果として与えられる。「イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために」イエス・キリストに従うという信仰の決断と、血のそそぎを受けることは、不可分の一つの出来事である。キリストの血は、神と人との間の唯一の新しい契約の保証であるので服従を要求する。また、神と人との契約のしるし、保証である贖罪の血は、服従によって受け入れられるのでなければ、交わりは保たれない。

新たに誕生し,生きた希望を与えられる(3-12)
3節 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
  「ほむべきかな」に神の救いの真理の豊かさを感じる礼拝の態度があらわれている。「神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせ」私たちの救いの根源は、神の豊かなあわれにある。あわれみとは神の全存在によって、われわれの救いのためのすべて行動であり、それは善人ばかりでなく罪びとも無価値なものも含めたすべての人類に及ぶ(ローマ11:30-32 [5] )。神から全人類に近づき救いに与からせてくださることは、キリストの豊かさに他ならない。救いの根拠は「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ」たことであって、われわれの側に救いの根拠はない。その意味でも「わたしたちの主イエス・キリスト」であって、神の約束による救い主である。イエスの贖いの復活を救いの根源として、「それにより」とそこから目を離さず、神が「わたしたちを新たに生れさせて」いることを強調している。「新たに生れさせ」自然、歴史を含めて人間の上に決定的な新段階がおこることをさす。イエス・キリストの復活によって、神の前には新しい人間の存在と、新しい世界に入ったことが指摘される。それは神の新しい創造、新しい人の誕生である(ガラテヤ6:15,2コリント5:17)。神のあわれみは、キリストの死からの復活によってわれわれを新しく生かし、三つの現実へと導く。それらは、まず「生ける望み」、次に「資産を受け継ぐ者」(4)となる、そして「」である。「生ける望み」をいだかせる。それは永遠を思い、幸福を将来に望んで、生き生きとした瞬間を一時的に持つ経験のことではない。真の意味で生きる力となる希望が、新しい生そのもの以外のものではあり得ない事実から出発する。それはイエスの贖いを源とする新しい存在として生きる信仰者の事実全体をさす。これこそイエスの復活を源とする望みである。
4節 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
  「資産を受け継ぐ者として下さった」が新生がとる第二の現実である。これは神がアブラハムに約束された地を嗣業として与えたことに源を発している(創世記17:3-8,申命15:4,詩篇79:1)。カナンの地は資産継承のしるしに他ならない(ヘブル11:9 [6] )。資産継承は神による新生者、子とされた者たちの特権である(ローマ8:17 [7] )。資産の内容は永遠の神の国における生活である。それは「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」と形容される。神の民として新しく生まれた者は、神ご自身の生きる場をさす天に、神によってたくわえられた資産の継承を約束される。「たくわえられた」とは「見守る」(テーレオー)の意味を持つ語で、倉庫に物を保管する(ポケイメノス、コロサイ1:15で使われている)意味のたくわえるとは異なる。完了形の場合、神がまどろむことなく今に至るまでみていてくださる事実を暗示する(1コリント2:7)。それゆえ「朽ちず」とは死の力によっても荒廃することなく、「汚れず」とは濁った罪の渦巻きに汚されずにきよさを保ち、「しぼむことのない」とは時の経過によって失われないことである。
5節 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
   「終りの時に啓示さるべき救」救いがなぜ終わりの時に啓示されるべきものといわれるのだろうか。救いは新生を起こすことで始められ、「神の御力に守られて」すすめられてゆき、その成就は終末に啓示さるべきものなのである。信仰者は今救われていると言えるが、それは望みの中にある人格的な事実としてである(ローマ8:24 [8] )。神の資産を受け継ぐ、すなわち神の国の勝利の成就という最終的な救いが、終りの時に啓示される救いである。神の国を戦いとることは保証のない不確かなものではなく、神の国の成就として、天と地すべてを含む神の愛と真実の勝利として啓示されるもので、救い主キリストにあって、われわれのためにすでに確立されているものである。それを信じ、救いの約束としてもつのである。
6節 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
   救いについての完全な啓示は、終末の時に与えられるが、信仰者はすでに知らされた神の恵みによる救いと最終的に天の王国に住まうという望みによって生かされている。これにおいて、「今しばらくのあいだは」試練で悩み苦しまざるをえない。人の立場からはその試練を重大な事件と思う「かも知れない」。しかし、これらの試練は神の救いの計画の一部であるということを知って「大いに喜」ぶのである。
7節 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
   試練によって「信仰はためされ」る。信仰の試しは、「火で精錬されても朽ちる外はない金」の他に比べるもののない尊い精錬として信仰の悩みが与えられる(詩篇19:10,箴言17:3 [9] ,マラキ3:3)。この尊さは最後の審判の厳しい試みの先取りともいえるが、イエス・キリストが現れるとき、自分に賜る祝福を見出して「さんびと栄光とほまれとに変わるであろう」という。「変わるであろう」とは、イエス・キリストに出会うだけでなく、自分に賜る祝福を見出して、賛美、栄光ほまれを感謝のうちにささげるに至ることを示す。
8節 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
   わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いている(2コリント5:7,ヘブル11:1,ローマ8:24-25 [10] )。 また今は見ることを許されないが、時が来れば顔と顔を合わせて見るであろうという意味が含まれる(1コリント13:12)。これによってイエス・キリストを愛し信じることから、「言葉につくせない、輝きにみちた喜び」があふれる。
9節 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。
   「たましい」とは喜びにあふれ、かたくキリストに信頼して現実を生き、「終わりのときに啓示さるべき救い」に、今からあずかっている全存在をさす。だから「救を」という。「得ている」とは勝ち取ることで、大事に保持する意味があり、2コリント5:10,エペソ6:8,コロサイ3:25では「報いを受ける」と訳されている。また、救いは信仰の「完成や目的、終わり」(Τέλοςテロス [11] )で、テロスは普通、終末を目標として用いる語である。ここではローマ10:4の律法の「終わり」に近い意味で用いられている。テロスとは義と生命が与えられることであり、創造的な復活をおこす神の恵みの力によって義とされる現実こそ、信仰のテロスである。それが救いを獲得している姿なのである。
10節 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
   「あなたがたに対する」と「キリストの苦難」(次節)には「定まっている」という意味がこもる前置詞εἰς(エイス)が用いられている [12] 。文語訳聖書ではこれを「受くべき」と訳して意味を伝えている [13] 。旧約の預言者たちは全人類が受けるべき神の恵みとしての救いについて調べたという。
11節 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
   キリスト降誕以前の霊の存在であられるキリストがおくってくださる霊を「キリストの霊」という。それは「すべての人を照すまことの光」(ヨハネ1:9)で万物の中にある。人が善悪を知り、良心と呼ばれるものの導きを受けるのは、キリストの光による。預言者たちはその「自分たちのうちにいますキリストの霊」によって「キリストの苦難とそれに続く栄光」を知らされた(例えばイザヤ53章、11章)。そして「あらかじめあかし」して「それは、いつの時、どんな場合をさしたのか」を調べたという。
12節 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。
   預言者は、「自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕」にいっさいをささげて努力した。彼らは信仰によって「天からつかわされた聖霊に感じて」福音を啓示された。これは聖霊が自ら宣教の主体として福音を宣べ伝えるために預言者と使徒を用いられていることを教えている。その内容は、天使たちさえも知ることができず、「うかがい見たいと願っている事」であるという。それは今や、「救い」(10)が神の「恵み」(10)として「キリストの苦難とそれに続く栄光」(11)という「福音」(12)となって預言と証によって伝えられたのであるという。「自分たちのためではなくて」をキリスト宣教以前の預言者たちが奉仕したのは、その時代の人々「自分たち」のためではなくて、今の時代の人々のためであったとも解釈できる。

従順な子供として聖なる人となる(13-25)
前節まで、イエスの福音が教える偉大な救いは、復活に基づく生ける希望、天に蓄えられた朽ちることも消えることもない宝を受け継ぐ者となるということだと述べた。福音は、私たちが試練の中にある時悲しむとしても、イエスの再臨のときに見ないものを信じる信仰が称賛と光栄と栄誉をもたらすと約束している。それを旧約時代の預言者は聖霊によって啓示を受けたが、自分たちのためではなく、この時代の私たちのためであったのである。13-25節では、その偉大な救いにこたえるために私たちは聖徒としていかに生きるべきかを教える。
聖い生活を歩む(13-16)。贖われた生活を送る(17-21)。愛し合う生活をする(22-25)。
13節 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
   「イエス・キリストの現れる時」キリストは救いを完成するために再びこられる(5)。そのためにまず行うことは、「心の腰に帯を締め」そでをまくり、すそを帯にはさんで、働き始めるための姿勢を整える様を示す。信仰者の心の活動的な力を集中させる姿をさしている。この時代は、男が布一切れでできている服を腰のところにまくり上げて、仕事をしたり、戦いをする時に帯を締めた。神がエジプトに対して最後の災いである初子に死をもたらした際、イスラエルの民がすぐにエジプトを脱出できるように過ぎ越しの食事をとった時の姿勢がこれであった(出エジプト12:11 [14] )。彼らがエジプトを出ることによって、その災いから免れることができたのと同じように、キリスト様が来られることによって、神の怒りから私たちを救ってくださる。 ですから、しっかりと思いを引き 締めていなければならない。「身を慎み」酔うことなくしらふのままでいるという意味で、他の影響を受けないでいるということをさす。これは「イエス・キリストの現れる時に与えられる恵み」以外の世の欲や思い煩いへ引きこまれることがないように、御霊に留まり、自制の実を結ぶようにせよということである。このようにペテロは、キリストの再臨のときに与えられるのは神の怒りではなく、罪人であったのに神の怒りから救われるという恵みであるということをいささかの疑いもなく待ち望めと勧告している。
14節 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
   3節で述べているように私たちは神によって新たに生れたので、自分の感情や気持ちに流されるのではなく、父にしたがう従順な子どものようにならなければならない。この世の知識によって行動するのではなく、信仰の祈りによって神の真理に従うのである。「無知であった時代の欲情」神を知らないと知性が暗くなり、感情や欲望に従うようになる(エペソ4:17-24 [15] ,テトス2:2-14)。新しく生まれた今はそのような生活を過去のものとしなければならない。それには安息日に教会に行きただ話を聞くだけではだめで、従順な子供のように日々の福音学習と実践を続けることが必要である。それがないと感情に流されこの世の知識によって判断するし、「無知であった時代の欲情」に従うことになる。
15節 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
   「あなたがたを召して」これはクリスチャンとしての大いなる召しと考えてよいだろう。その召しとは「あらゆる行いにおいて聖なる者」となることである。この「あらゆる行い」のギリシャ語本文(NA28)は、ἀναστροφῇで、会話を意味する。KJVでは「あらゆる行いにおいて」を原文に忠実にin all manner of conversationと訳している。口語訳では他者と人間らしくかかわり、公の働きをする生活のすべてをさすものとしている。いろいろなことが起こり、さまざまな困難や試練があるこのような生活のあらゆる場面において「聖なるかた」である神を呼び、それにならえと教える。そうすることによって、火を通して精錬するように、信仰を精錬し聖なるものとなる。
16節 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
   「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(レビ11:44-45 [16] )。人と世界に関係しながら絶対的な他者としいています神は、「わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。」(ホセア11:9)といわれる。人が生きるいっさいのことを「無知であった時代の欲情」に従うのではなく、この聖なる神に捧げるとき、神との生命的かかわりのゆえに聖とされるのである。
17節 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。
   「父と呼んで」神を呼び祈るとき子とされる恵みをしめす(ローマ8:14-15 [17] )。父なる神は「人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかた」であるという。だが現実の世の中は不公平なことの方が多い。ある人は不正で権力や富を得、一方では虐げられたり災害や事故に遭い苦しむ人が大勢いる。そのため神がいるとはどうしても思えないという人がいる。しかしこれは他の人々がどうであるかを考え、自分がそれらの人や物事を裁こうとする見方である。しかし、神は「人をそれぞれ」の行いが神の前でどうなのかによって公平に裁かれるという。すべての裁きを主にゆだね、主が自分自身を裁くことだけを見ればよいのである [18] 。だから「地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべき」と教えている。この世の旅人であり寄留者(2:11)でいるのは、いつまでも続くのではないからである。
18節 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
   「先祖伝来の空疎な生活」とは神の前に現実性と意味を失った生活で、その中にあって人は自分から空しさに自分を置く日々。キリストとともに歩む生き生きとしたものではなく、先祖から言い伝えられたもの、律法についての言い伝えに従うだけで意味を考えることもしない。その先祖伝来の教えは人の内をきよめる効力を持っていない。パリサイ人やユダヤ人は食事の前に昔の人の言伝えをか たく守って、念入りに手を洗い、また市場から帰ったら体を清めてから食事をし、杯や水差し器を洗うなど昔から受けついでか たく守っているしきたりによって神に近づこうとした(マルコ7:3-4)。そのような「空疎な生活からあがない出された」のである。「あがない出される」(ἐλυτρώθητε)の原意は、「買い戻される」、または「身代金を支払う」である。旧約聖書には約100回出てくるが、新約聖書には3回しか出てこない。イスラエルの民はエジプトに奴隷として売り渡されていたが、主はこれをあがない出された。ここでは、「あなたがたのよく知っているとおり」と注意したうえで新しいイスラエルを「あがない出した」は、キリストの贖罪よるものであり、「銀や金のような朽ちる物」ではない。尊い神の御子ご自身の命そのものが身代 金となったのである。 これだけの高価な対価によって買い取られたのであるから、神の救いをないがしろにしてはいけない。
19節 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
   「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」キリストが彼自身の生命をささげて行使したあがないの力の源を示す。神が受け入れるささげ物のいけにえは傷もなく汚れもないものでなければならなかった(出エジプト12:5,レビ22:19-20 [19] ,申命15:21)。これは神は完全であられるから神が受け入れるものも傷や欠点があってはならないことを示す。キリストはまったく罪を犯さなかったがゆえに人類の罪の身代わりになることができたのである。小羊の血は過ぎ越しの儀式を示す。エジプト脱出の際その血を鴨居と門柱に塗ることによって、死の使いはそれを見て家を過ぎ越した。
20節 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。
   万物の創造主であるキリストが贖い主として人類の罪を贖い救うことは、「天地が造られる前から」あった永遠の神のご計画の究極の目的であった。それが「この終りの時」に実現過程に入ったというのである。
21節 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。
   「このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となった」この神を信じる者こそ真の信仰者である。信仰者は神を信じる。その信仰には、神がキリストを復活させ彼に栄光をお与えになったことを承認するということが含まれる(使徒3:13-15 [20] ,ピリピ2:6-11 [21] )。キリストが復活されたことと、復活したキリストが神ご自身の聖なる支配を執行する地位につかれたことを一つの事柄として扱い、神ご自身にのみ帰すべき栄光をキリストにお与えになったのである。そして実にこのキリストが、救わるべきすべての罪人のために死と復活、そしてこれに基づく恵みの支配をおこし、今日も働きたもうゆえに信仰が与えられる。したがって、「あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっている」というのである。その意味は、信仰の源泉も目的も、実はわれわれのためにキリストを立てたもうた神にあるということである。パウロが「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」(ローマ1:17)というのに近い。
22節 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
   「真理に従うことによって、たましいをきよめ」は真理に従うことで人が魂をきよめることができるということを述べているのではない。ここの「きよめ」は現在完了形(ἡγνικότες = having purified)だが、日本語では時制の表現が難しい。その点英語では明確に表現できる(例えばKJV [22] )。つまりここは真理に従い、兄弟愛によって愛し合うようにすでに魂がきよめられている状態にあるという事実を示している。贖いと復活のキリストに対する信仰をバプテスマによって公に表したということである。バプテスマは福音に対する、信仰を表す一回的な決断であることに注目すべきである。バプテスマの恵みは救いの確保、信仰に生きる魂のきよめ、互いの愛の交わりの基礎である。人は愛し合えるように恵みを受けている。「偽りのない」の偽りとは、舞台で俳優が劇中の人物になりきり、本人が劇の役柄であるかのようにみせることである。だから偽りのないとは、人生を真の自分でない役柄でふるまうことをしないということである。「互に心から熱く愛し合い」とは常に新しく信仰に生きるようにすすめる戒めである。「熱く」(ἐκτενῶς = fervently)は、熱烈にという意味を伝える真実を基にしたはりのある強さをさしている。
23節 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
   「朽ちない種」とはすなわち、「神の変ることのない」永遠に存在し継続し続ける「生ける御言」という。種はイエス・キリストをさし御言と同じであると解してよいだろう。御言によって「新たに生れた」(ἀναγεγεννημένοι)は、前節の「きよめ」と同様に現在完了形である。KJVではHaving been born againと訳している。
24節 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
   ギリシャ語訳イザヤ40:6-8の引用 [23] 。バビロンに囚われ、生きる望みを失いがちなイスラエルの民の生活感情が表れている。人の栄光や人の言葉は朽ちて行くけれども、神の語られた言は永続しいつまでも変わることがない。草や花のような人の栄光を求めるのか、神の栄光を求めるのか。
25節 これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
   神のことばである福音「宣べ伝えられた御言葉」を聞いて、それを信じたことにより新しく生まれ、そのことによって「偽りのない兄弟愛」(22)が生まれたのである。

(2020/08/24)


[1]  申命14:2
 あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

[2]  ヘブル11:13-16
   これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

[3]  エレミヤ1:5
  「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、
   あなたを知り、
   あなたがまだ生れないさきに、
   あなたを聖別し、
   あなたを立てて万国の預言者とした」。

[4]  ローマ8:29-30
   神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

[5]  ローマ11:30-32
   あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。

[6] ヘブル11:8
   信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

[7]  ローマ8:17
    もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

[8]  ローマ8:24
   わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

[9]  箴言17:3
   銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、
   人の心を試みるものは主である。

[10]  ローマ8:24-25
   わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

[11]  1ペテロ1:9ギリシャ語本文(NA28)
   κομιζόμενοι τὸ τέλος τῆς πίστεως ὑμῶν σωτηρίαν ψυχῶν.

[12]  1ペテロ1:10-11ギリシャ語本文(NA28)
  10 περὶ ἧς σωτηρίας ἐξεζήτησαν καὶ ἐξηραύνησαν προφῆται οἱ περὶ τῆς εἰς ὑμᾶς χάριτος προφητεύσαντες
  11 ἐραυνῶντες εἰς τίνα ἢ ποῖον καιρὸν ἐδήλου τὸ ἐν αὐτοῖς πνεῦμα Χριστοῦ προμαρτυρόμενον τὰ εἰς Χριστὸν παθήματα καὶ τὰς μετὰ ταῦτα δόξας.

[13]  1ペテロ1:10-11(文語訳)
  10 汝らの受くべき恩惠を預言したる預言者たちは、この救につきて具に尋ね査べたり。
  11 即ち彼らは己が中に在すキリストの靈の、キリストの受くべき苦難および其の後の榮光を預じめ證して、何時のころ如何なる時を示し給ひしかを査べたり。

[14]  出エジプト12:11
  あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。

[15]  エペソ4:17-24
  そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

[16]  レビ11:44-45
  わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない

[17]  ローマ8:14-15
  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

[18]  ローマ14:10-12
  それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 すなわち、
    「主が言われる。わたしは生きている。
    すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
    すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」
  と書いてある。 だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

[19]  レビ22:19-20
   あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。 すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。

[20]  使徒3:13-15
   アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。

[21]  ピリピ2:6-11
   キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

[22]  KJV 1ペテロ1:22
   Seeing ye have purified your souls in obeying the truth through the Spirit unto unfeigned love of the brethren, see that ye love one another with a pure heart fervently:

[23]  LXX ΗΣΑΙΑΣ 40:6-8
   6φωνὴ λέγοντος Βόησον· καὶ εἶπα Τί βοήσω; Πᾶσα σὰρξ χόρτος, καὶ πᾶσα δόξα ἀνθρώπου ὡς ἄνθος χόρτου· 7ἐξηράνθη ὁ χόρτος, καὶ τὸ ἄνθος ἐξέπεσεν, 8τὸ δὲ ῥῆμα τοῦ θεοῦ ἡμῶν μένει εἰς τὸν αἰῶνα.