Image2章 概要 Image

ペテロの第二の手紙3章

主の来臨を待ち望む者の生き方

主は必ず再臨する(1-13)
1節 愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。
   パウロは、この章で「愛する者たちよ」と4回呼びかけ、兄弟愛を表し、読む者に安心感を与えている。そしてこの第二の手紙の目的は、「記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせ」るためであることを示している。主の再臨とそれに対する備えという重要なことを繰り返し学ぶことによって、惑わしや思い煩いで鈍くなった心にもう一度「純真な心」を呼び戻すのである。
2節 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
   手紙で呼び起こそうとしていることは、「聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉」(旧約聖書)と「使徒たちが伝えた主なる救主の戒め」(新約聖書)の二つに要約される。にせ教師たちは自分の心にある私的解釈を勝手に伝え、行いが汚れているので、聖霊によって導かれ神のことばを伝えた旧約の預言者たち(1:21)をあえて「聖なる預言者」と呼んでいる。そして、使徒たちは主の教えを主から直接聞き、主イエスが何を行なわれ、何を言われたかを知っており、それゆえ人々に「主なる救主の戒め」を伝えることができた。そして、こちらにも主が命じていないことを教えるにせ使徒がいた(2コリント11:13)。
3節 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
   ここが3章の本題である。それは、キリスト再臨の前に必ず出てくる不信と道徳的乱れに注意しなければならないということだ。死期が近づいていることを知っていたペテロは1:16で、「主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた」。ペテロは高い山でイエスが変貌する姿を見、威光を目撃した者として主の再臨と力を伝えた。また主の来臨について旧約の預言者たちは何度も語り、イエス自身も繰り返し話された。ところが、にせ教師、にせ預言者はそれを否定する。彼らは「自分の欲情のままに生活」しているので、主の再臨がないと、裁かれず報いもないので好きなようにできるのだ(マラキ3:14-15)。
4節 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
   彼らは旧約聖書に書かれている約束が実際には実現していない、歴史は繰り返すだけで、根本的な変化や革新はあり得ず「天地創造の初めからそのまま」だとあざける。そして「主の来臨の約束」を否定するだろう。「先祖たち」とは、アブラハム、イサク、ヤコブの族長たち。これら先祖たち以降に約束されたメシヤ来臨はどうなっている。何も変わっていないではないかと「あざける者たち」は言うだろう。我々自身、心の中で今の秩序がこれからもずっと同じように続くと考えてしまう危険がある。いつまでも何も同じようで変わらないのであれば、すべてを新しくすると言われたキリストに対する信仰が危うくなる。
5節 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
   天地は、神のことばによって水を媒体として創造された(創世記1:1-6)ことを忘れている。すなわち、創造の二日目に、大空の下にある水と大空の上にある水とを分けられた。そして三日目に大空の下にある水に一つ所に集まり、かわいた地が現われよと主が仰せになった。その乾いたところを陸と名づけ、水が集まったところを海と名づけた。地が水から出てきたのである。
6節 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
   しかし、このようにして造られた天地創造の始めの世界は、ノアの時代に「御言により水でおおわれて滅」ぼされた(創世記7:4)。来臨はないとあざける者たちは、今の世界は天地創造の初めからあったものではなく、洪水後の世界だということをすっかり忘れている。彼らのようにすべてのものは天地創造の初めからそのまま続くのがあたりまえと考えることは傲慢である。天地を創造した主は滅ぼすことも裁くこともお出来になる。
7節 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
   今の中間の時代に不信仰は見過ごしにされていない。神は彼らが「滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで」保っておられるのである。すなわち、神の忍耐のゆえに現実世界は保たれている(ローマ2:4 [1] )ということだ。その日、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼされるが、主は信心深い者を試錬の中から救い出される(2:9)。
8節 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
   来臨はないとあざける者たちの不信と誤った考えを厳しく非難したパウロは、来臨を待ち望む信仰者に対して、「愛する者たちよ」と呼びかけ安心感を与えながら、「この一事を忘れてはならない」と注意を喚起している。それは主の来臨について見落としがちな点があるということだ。それは、「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(詩篇90:3-6 [2] )ということだ。神の一日は人間の千年にあたるほど広大だというのではなく、時間を永遠に似たものとしてとらえることを否定する。時間に誓約される人間がたとえ千年生きても、土に帰ればもはや過去の事となり一瞬の命に過ぎなかったように見える。また永遠の主の前にいるのがたとえ一時であっても千年のようになるだろう。時間は永遠を知りえず、被造物は、創造主に対してもろもろの出来事が何を意味するかを理解することができない。永遠なる神は時間をみこころのままに創造し支配したもうのだ。「この一事」を忘れるとき、神が歴史を支配なさることを洞察できず不信に陥るのである。
9節 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
   歴史の経過を見て、神の約束の実現を「おそいと思っている」のは、まとはずれで不信である(イザヤ14:24 [3] )。神は「主は約束の実行をおそくしておられるのではない」、かえって世を救う目的のため忍耐しておられるのである。「ひとりも滅びることなく、すべての者が悔改めに至る」まで待たれる神の忍耐と寛容を忘れてはならない。ハバクク2:3「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」。
10節 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
   「主の日」とは、預言者たちが語ってきた神の怒りが地上に下り、全てのものを建て直す時を指す。神の忍耐は無限に続くのではない。最後の審判の「主の日は盗人のように襲って来る」(1テサロニケ5:2-3,ルカ21:34)。思わぬ時にその日が来て新天新地に変わる。「天体」στοιχεῖα(stoicheia) [4] は、元素(elements)KJV [5] 、もろもろの霊力(ガラテヤ4:3 [6] ,9,コロサイ2:8)などと訳され、ここでは星が形成する天体のこと(イザヤ34:4,マタイ24:29)。さらに当時天体を動かしていると考えられていた諸霊を含める。「地とその上に造り出されたも」自然や人間の所産いっさい。最後に被造物全体にわたる徹底的な変化が起こるという。
11節 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
   「主の日」について考えるとき、主の来臨を熱心に待ち望む者が備えるべきは、敬虔な生き方、世の汚れ罪から離れた生き方ということになろう。
12節 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
   それには、ひたすら「きよく信心深い行い」を実践することである。主のみ心に沿ったこと以外は崩れ去ってしまうのだから、キリストに似た生き方に励まなければならない。世についての思い煩いはどんなものであれ、過ぎ去ってしまう。1ヨハネ2:17「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」。そのようにして、「その日」を迎えることができるようにしっかり備えなければいけない。
13節 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
   主の日には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」強烈な熱で元素のレベルで溶け(KJV: the elements shall melt with fervent heat)、今の天地は崩壊するが、「神の日の到来を熱心に待ち望んでいる」者は、「神の約束」を絶対的に信頼し、全く新しく創造される「新しい天と新しい地」(イザヤ65:17,66:22,黙示21:1-4 [7] )を待ち望む。その新天新地は「義の住む」ところである。そこにおいては、死がなく、苦しみや嘆きが過ぎ去り、正義が宿る。黙示21:3-4「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。その日、義に飢え渇いている者は満たされる(マタイ5:6)。

むすび(14-18)
来臨にそなえよ
14節 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
   1ペテロ1:19で贖いは「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」によって行われたと言っている。「しみ」は生まれつきの罪、「きず」は生まれた後に犯した罪をさす。すべての人は生まれながらの罪びとで、罪を犯した者である。しかし、キリストの尊い血によって贖われたのであるから、来臨を待ち望む者の生活態度は、己を「しみもなくきずもない」捧げものとしてそなえることにある。澄み切った確信を保ち、義と平和がおのずとひとつになるように他人との関係を平和にすすめること。責めがなければ、主の来臨の際、みまえに大胆に「安らかな心」で出ていくことができる。
15節 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
   「主の寛容」は例えば、9節の「あなたがたに対してながく忍耐しておられる」ことをさす。主が忍耐して、人々が悔い改めるのを待ってくださっているのである。パウロが「書きおくったとおり」とは、ローマ2:4以下,テサロニケ,ガラテヤ,エペソ,コロサイ人への手紙等をさす。
16節 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
   「無学で心の定まらない者」とは解釈方法を教えられないため、信仰の洞察を欠き、かってに聖書を用い、純粋に福音に基づいて歩むことができない者たちをさす。「ほかの聖書についてもしているように」聖書のある個所だけを強調して、意味を誤解して解釈しているように、パウロの手紙を誤って解釈し、信仰をつぶしてしまい、滅びをまねいている人々がいたのである。これは今の時代にもいえることだ。1:20「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」
17節 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。
   「非道の者」にせ教師、福音を嘲笑する者。「あなたがた自身の確信」我々が持つべき聖書に基づく福音の確信。この確信は聖霊によって保つもので、生活の中で常に祈り、「失うことのないように」主に求め、「惑わしに誘い込まれ」ないようにしなければならない。
18節 そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。
   多くの手紙では恵と平安をむすびの言葉とするが、この手紙の目的は、わたしたちを召されたかたキリストを知る知識(1:3)をゆるぎないものとすることを強調するものであるから、「恵みと知識」において成長することをむすびのあいさつにしている。

(2021/01/04)


[1]  ローマ2:4
  それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。

[2]  詩篇90:4
  あなたは人をちりに帰らせて言われます、
  「人の子よ、帰れ」と。
  あなたの目の前には千年も
  過ぎ去ればきのうのごとく、
  夜の間のひと時のようです。
  あなたは人を大水のように流れ去らせられます。
  彼らはひと夜の夢のごとく、
  あしたにもえでる青草のようです。
  あしたにもえでて、栄えるが、
  夕べには、しおれて枯れるのです。

[3]  イザヤ14:24
  万軍の主は誓って言われる、
  「わたしが思ったように必ず成り、
  わたしが定めたように必ず立つ。

[4]  NA28 ΠΕΤΡΟΥ ΕΠΙΣΤΟΛΗ ΔΕΥΤΕΡΑ 3:10
   Ἥξει δὲ ἡμέρα κυρίου ὡς κλέπτης ἐν ᾗ οἱ οὐρανοὶ ῥοιζηδὸν παρελεύσονται, στοιχεῖα δὲ καυσούμενα λυθήσεται, καὶ γῆ καὶ τὰ ἐν αὐτῇ ἔργα οὐχ εὑρεθήσεται.

[5]  KJV The Second Epistle General of PETER 3:10
   But the day of the Lord will come as a thief in the night; in the which the heavens shall pass away with a great noise, and the elements shall melt with fervent heat, the earth also and the works that are therein shall be burned up.
  注) 新改訳聖書(2017)では、「天の万象」、聖書協会共同訳聖書(2018)では、「自然界の諸要素」と訳している。

[6]  ガラテヤ4:3
  それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
 KJV
  Even so we, when we were children, were in bondage under the elements of the world:
 NA28
  οὕτως καὶ ἡμεῖς, ὅτε ἦμεν νήπιοι, ὑπὸ τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου ἤμεθα δεδουλωμένοι·

[7]  黙示録21:1-4
   わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。