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ペテロの第二の手紙2章

主を否定するにせ教師たちの出現に関する警告(1-22)
にせ教師と彼らへの審判(1-3)、神の悪人に対する審判と義人に対する配慮の歴史的な説明(4-11)、にせ教師の悪らつさと彼らへの審判(12-19)、にせ教師のうけるきびしい裁きの理由(20-22)
1節 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
   「にせ預言者」1列王22,エレミヤ23,エゼキエル13,ゼカリヤ13。「異端」は「滅びに至らせる」と結ばれて危険な信仰思想をさす。贖い主を否定するか否かをつきとめるとき、このような異端であるか否か明らかになる。にせ教師は異端を単独に素朴に示しはしない。ほかに便乗して「ひそかに持ち込」むのである。この手紙でいう異端とはグノーシス主義をさしている。
2節 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。
   にせ教師は人の欲望をかりたて「放縦」の形をとる。多くの者がにせ教師の行為をよいことにして見習う。反対者はこの事実を非難する。「真理の道」がそしられる理由。
3節 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。
   にせ教師は人々を性的放縦に走らせるだけでなく、最深の欲望というべき貪欲を刺激し、「甘言」で誘う。宗教の名をかりて利をむさぼる。だが神の審判はけっして彼らを見過ごしにはしない。
4節 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。
   「罪を犯した御使たち」創世記6:1-4,ユダ6 [1] 。「下界」タルタロスΤάρταρος(ΤΑΡΤΑΡΟΣ)、奈落そのもの、地下深淵の場所。ギリシャ神話では地上の反逆の力をさばく所とされた。「暗やみの穴」穴=セイロスσειροῖςを鎖=セイライスσειραῖςと訳す説があり、それはユダ6の「しばりつけ」と合致する。悪魔的な反逆の力は最終的な神の審判において処理されるまで「閉じ込めておかれ」る必要がある。看守の意味を含む。
5節 また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。
   「古い世界」は「不信仰な世界」で新旧の違いは信仰の有無による。罪は不信である。「ノアたち八人の者だけを保護」洪水と義人ノアは世界の刑罰、キリストによる最終的審判と救いを示す。創世記6:9-12,ルカ17:26-27 [2]
6節 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、
7節 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。
8節 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)
   「ソドムとゴモラ」創世記19:24-28,ユダ7,ルカ17:28-29 [3] 。これらは「不信仰に走ろうとする人々の見せしめ」である。5節の水に対して火の審判である。
9節 こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、
   ユダ8-9 [4] 。神はノアやロトに対するように、信仰に生きようとする者をきびしい試みの中から救ってくださる。神は堕落の天使ソドム、ゴモラの住民を最後の審判まで看守する意味ですでに罰し始めておられる。救いとさばきは今の出来事でもある。
10節 特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。
   「権威ある者」真の主権によって立てられている者。「栄光ある者たち」神、キリスト、更に政治指導者、教会指導者たち。ユダ8
11節 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。
   「御使たち」神に反対する堕落した天使たち。自分が権力や勢力では権威者よりまさっているが、神に最終的審判まで看守されていることを知っているので「主のみまえに」訴えたり、そしったりすることをしない。
12節 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。
   動物は捕らえられてほふられるにしてもそれは本来の姿である。にせ教師は事実や客観的情報に基づくのではなく、感情や感覚で物事を決める理性のない動物と同じで、「自分が知りもしないことをそしり」、その結果「不義の報い」の罰として滅ぼされる。「滅ぼされ」るはほふられると同義。この意味で今は、終わりの日の兆候が見えていると言える。事実よりも、感情が優先され、自分の感じていることを害されることは悪であるという感情のコントロールが利かない人が増えている。
13節 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。
   「だましごと」ἀπάταις(apatais)はἀγάπαις(agapais)と読む写本があり愛餐(ユダ12 [5] )の意味にとる場合もある。「あなたがたと宴会に同席して」食事の席において心をうちとけ、互いに信頼し真実な交わり、一つになることができるが、そこを汚れた思いを持ち込むのは容易なことである。教会において愛餐が信仰の意味を失い享楽の酒宴化したのはにせ教師よる点が大きい。
14節 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。
   性的な罪、さらに貪欲。「心の定まらない者」主を信じ救われたばかりであるとか、求道中の福音に深く根をおろさない人々。にせ教師たちはこういった人々を本能的に嗅ぎつけ、誘惑して自分達の方に誘いこむ。悪らつな彼らは神の「のろいの子」となる。
15節 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、
   「ベオルの子バラム」ユダ11,民数22:1-24,35,申命23:4,黙示2:14 [6] 。預言者バラムがモアブ王バラクの再三の誘いに利に目がくらんでイスラエルをのろう要求にしだいに応ずるようになる。
16節 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。
   神は物いわぬロバの口を通じて語り狂気じみた行為を制したもうた(民数22:21-35)。同様ににせ教師は、一見正しいことを口にしながら事実上は神に逆らう。神は彼らのあやまちをロバのような愚かなものの口を通じてさえ正したもうのである。
17節 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。
   「水のない井戸」外見は水をたたえていると期待されるのに事実は水がかれている井戸のように生命のない魂。「突風に吹きはらわれる霧」外部からの力で簡単に動き、激しく変転する状態。にせ教師のことばには、いのちもなにもなく、突風で吹き払われる霧のように、実体のないものでである。彼らの受ける罰は「暗やみ」そのものである(2:4)。
18節 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、
   「むなしい誇を語り」ユダ16 [7]
19節 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。
   「人は征服者の奴隷となるもの」ローマ6:16 [8] ,ヨハネ8:34。
20節 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
   ヘブル10:26 [9] 。信仰後の堕落は改心前よりもいっそう悪くなる。
21節 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
   「義の道」福音すなわち神の義にあずかる道。福音はまた「聖なる戒め」である。それで信仰者はおそれつつ御言葉に従わなければならない。万一、何をしても罪はないと思う高慢と迷いに立つなら「むしろ義の道を知らなかった方がよい」。それは次の理由による。
22節 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
   彼らは自分の吐いたものを食べる犬、洗われたのちにどろの中にころがる豚のような行為をするからである(箴言26:11 [10] ,マタイ7:6)。これは、自分の吐いた物、すなわちすでに離れた肉欲や汚れの中に戻る、あるいはきよめられたのに、再び汚れの中に戻るという惨めな状態である。

(2021/01/03)


[1]  ユダ6
  主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。

[2]  ルカ17:26-27
  そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。 ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

[3]  ルカ17:28-29
  ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

[4]  ユダ1:8-9
  しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている。 御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。

[5]  ユダ1:12
  彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、
  οὗτοί εἰσιν οἱ ἐν ταῖς ἀγάπαις ὑμῶν σπιλάδες συνευωχούμενοι ἀφόβως, ἑαυτοὺς ποιμαίνοντες, νεφέλαι ἄνυδροι ὑπὸ ἀνέμων παραφερόμεναι, δένδρα φθινοπωρινὰ ἄκαρπα δὶς ἀποθανόντα ἐκριζωθέντα,
  (注) 愛餐(あいさん)とは、キリスト教会で信徒が共にする食事のこと。聖書では、ユダの手紙に一カ所出てくるのみ。

[6]  黙示2:14
  しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。

[7]  ユダ1:16
彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。

[8]  ローマ6:16
  あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。

[9]  ヘブル10:26
  もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。

[10]  箴言26:11
  犬が帰って来てその吐いた物を食べるように、
  愚かな者はその愚かさをくり返す。