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ペテロの第二の手紙1章

あいさつ(1-2)
1節 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。
   「イエス・キリストの僕また使徒」、僕δοῦλος(doulos)は、ローマの下級奴隷。ここに、使徒にはキリストの全権が与えられているが、イエスの下僕に過ぎないという主にある指導者の謙遜の姿を見る。「シメオン」Συμεὼν(Symeōn)は、シモンのヘブル語で、使徒行伝15:14のシメオンもペテロのこと。ユダヤ人と異邦人の信者を意識している。「わたしたちの神と救主イエス・キリスト」τοῦ θεοῦ ἡμῶν καὶ σωτῆρος Ἰησοῦ Χριστοῦ,を新改訳聖書、共同訳聖書では「私たちの神であり救い主であるイ エス・キリスト」と訳している。「救主イエス・キリストとの義」、ペテロは自分たちの義ではなく、義が神の賜物であることを教えている。「わたしたちと同じ尊い信仰」、自分たちが受けたのと同じ信仰を共有していることを強調している。場所が離れていても、信仰は一つである。
2節 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
   「知ることによって」、ここでの知るとは、単なる知覚ではなく、人を知り親密になるように全人格的に理解すること。すなわち、神とイエスとを知ることによって、信ずることをさらに深め、完全に自分のものとすることができる。「恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」、イエス・キリストを知ることによって、霊的に成長し、ますます恵みが豊かになり、平安に満たされる。これが、この書簡の基本的なメッセージになっている。

キリストを知る者へのすばらしい約束とその実現の道(3-11)
主に召されるということは、主の救いを受け入れたことを意味する。主の召しは、神ご自身の栄光と徳による。主の召しによって、神としての御力が与えられる。
そして、主から与えられた信仰を働かせ、積極的に霊的成長に務め、たえず前進しなければならない。それは、これから忍び込んで来る、あるいは既に忍び込んでいる偽教師の問題に対処するために必要なことである。
3節 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。
   「いのち」は、信仰による新しい命。「信心」は、信仰により信仰者に現れる敬虔な心。また、神を恐れ敬うことである。「栄光と徳」、栄光は神の独り子としての栄光で、徳は神の善が働く力。栄光はいのちに徳は信心に関わる。「召されたかた」とは、イエス・キリストをさす。すなわち、主による救いを受けた時、神ご自身の栄光と徳によって呼ばれ、招き入れられて召されたのである。それは、キリストを「知る知識」により、「主イエスの神聖な力」によってわれわれに与えられる。知が行為に展開されるには人となりたもう救い主イエスの神として神に働きたもう力が必要である。
4節 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。
   「それらのもの」とは栄光と徳。「尊く、大いなる約束」とは最終的に「神の性質にあずかる者となる」こと。信仰する者は、イエスを主として仰ぐことが許される。それ故「尊く、大いなる約束」をもち、神の性質が現わされるキリストの御業にあずかるものとされる。「世にある欲」とは神を無視し、離れ、自己のために生きる人の世の根底にある罪を示す。それは人を滅びに導くものである。しかしキリストに従い世と戦い、約束に生きる者はすでに世に勝ち滅びから免れる。
5節 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、
6節 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、
7節 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
   私たちが神の救いを受けたというのは、神の栄光と徳によって、神のご性質にあずかったということに他ならない。その神の恵みの賜物を受ける者は「力の限り」養い育てる責任がある。そのために、与えられた信仰を愛によって働くところまでの過程を述べている。「加え」とは、もともと合唱隊を率い、自分の負担で必要な一切を備えて養成するという意味から出た語。信仰を豊かな大地のようにみて、そこに「徳」、さらに「知識」、「節制」、「忍耐」、「信心」、「兄弟愛」(キリストにあって兄弟とされた者の間の愛情。異教的な環境にあっては信仰を育てるのに不可欠である。1ペテロ1:22 [1] ,3:8)、「愛」を育てる。このように道は信仰から愛に至る。
8節 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。
   ここでは、「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるなら」と常に前進することが重要であることを強調している。 前進がなければ、後退し、「怠る者、実を結ばない者となる」のである。「怠る者」とはクリスチャンと呼ばれても、全くその用をたしていない者をいう。「キリストを知る知識」とは、単に知っていることではなく、キリストに似ることを意味する。「怠る者」はキリストに似ず「実を結ばない者」になってしまう。絶えず、主イエス・キリストを知っていくことが、内側から来る偽の教えから守られるのである。この道こそ「実を結」ぶものである。
」この道こそ「実を結」ぶものである。
9節 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。
   これらを備えていないと「盲人であり、近視の者」のように目の前のものしか見えないので、主イエスが将来与えられる栄光を見ることが出来ない。また盲人のように自分がしていることに気が付かない。そして、「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れ」、また同じ汚れの中に戻ってしまう。「きよめられた」者は、むきよめのなかに留まるように努力し続けなければならない。
10節 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
   「兄弟たちよ」と親愛をこめて、これまでも熱心に励んできたが、「ますます励んで」確かなものにするようにと勧めている。主イエスによって与えられた「召しと選び」が、たしかなものであることを熱心に励むことによって、主を知っていく中ではっきりさせていくということである。これを行いながら、罪を犯すことはできないから、「決してあやまちに陥ることはない」と、ここで保証している。信仰に徳を、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えていくならつまづく暇が生ずるはずがない。
11節 こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。
   この道は、「主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵み」である。「与えられ」ἐπιχορηγηθήσεται(epichorēgēthēsetai)=will be suppliedは、5節の「加え」 παρεισενέγκαντες(epichorēgēsate)=supplementと同義語。召しと選びには、主イエスの永遠の御国に入る約束が含まれるが、単に入るのではなく、熱心に励むことによって、恵を豊かにされる。それは主を知り、そのご性質にあずかる中で、おおいなる相続が与えられ、恵がさらに「豊かに与えられる」。イエスはこれをタラントのたとえで教えている。旅に出る主人から、5タラントを預かったものは5タラントもうけ、2タラントを預かったものは2タラントもうけたが、1タラントを預かったものは土の中に隠した。5タラントもうけた者のと2タラントもうけた者は、さらに多くを与えられ「いよいよ豊かに」なったが、増やさなかった者、「怠る者、実を結ばない者」は、持っているものまで取り上げられた(マタイ25:14-30 [2] )。

キリストの威光の目撃者の証言と勧め(12-21)
手紙の目的(12-15)、イエスの変貌(16-18)、預言の言葉(19-21)
12節 それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。
   「それだから」永遠の国に入る望みはかたいから。「これらのこと」3-11節示された信仰、徳、知識の関係。「いま持っている」(9節の「備える」と同じ意味)今信じている真理、そしてその中で生きていることをさす。そこに、さらに大きな認識が加えられので、いつも「思い起させ」ることが必要になる。
13節 わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。
   「この幕屋にいる間」現世でのもろい肉体に生きている間。
14節 それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。
   「主イエス・キリストもわたしに示して下さったように」(ヨハネ21:18-19 [3] )。「幕屋を脱ぎ去る時」(2コリント5:2-4 [4] )。「間近」このことは突然起こりかねない。
15節 わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。
   「去った」ギリシャ語原典では、ἔξοδον(exodon)。これは英語ではexodusにあたり、縛られている状態から解放されることを意味する。exodonの反対のことばは、εἴσοδος(eisodos)で、11節の「永遠の国に入る恵み」の「入る」で使われている。15節では、ペテロは肉体または地上という束縛から解放されて、天の御国に入るという思いを表しているのである。ルカ9:31 [5] の「最後のこと」もギリシャ語原典では、exodonになっている。つまり、ルカ9:31のexodonは、イエスの十字架の死によって、自分の肉体を解放するとともに、人類を罪と死の縄目から解放することを意味している。つまり、ここでペテロは、キリストの死による罪からの解放という、神の救いの計画の中に、我々は生きているのだということを覚えているようにと願ってこの手紙を書いたのである。
16節 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
   山上の変貌(マタイ17:2-5 [6] ,マルコ9:2-8,ルカ9:28-36)は、イエス再臨の栄光にみちた予見であった。「キリストの力と来臨」は人間が論理的に説明できるものではないが、人に信じさせるために「巧みな作り話」を弄する必要はない。ペテロは「威光の目撃者」であるから、ただ事実を告げるだけでよい。当時すでに偽教師が教会に入りこみ、モーセ五書や預言書、歴史書などに書かれていない「巧みな作り話」で人々を惑わそうとしていた(1テモテ1:3-4, 2ペテロ2:3)。そういった神の救いの計画からそれる偽りの教えに気を付けなければならない。また、キリストの力と来臨については、「作り話」ととらえられることが多いのが現実で、約束された来臨が起きていない、地上は昔から変わっていないと、あざける者たちが出て来るという。しかし、そのことをご存じの主はペテロ、そしてヨハネとヤコブに、前もって御国の栄光と力をお見せになっていたのである。イエスは、ピリポ・カイザリヤの村々を巡っているとき、ご自分が誰であるか弟子たちに尋ねられ、ペテロが、「神のキリストです。」と答えると、イエスは苦しみを受けて、三日目に甦ることを話され、弟子たちに自分を捨て、自分の十字架を背負い、ついて来るように話された。その6日後(ルカでは8日後)に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスとともに山に登り、山上でイエスが変貌され、栄光と力が現れるのを見たのである。その場には、律法の代表であるモーセと預言者の代表であるエリヤがいて、イエスがエルサレムで苦難を受けることについて話しあっていた。律法も預言者もイエスの苦しみについて証言しており、これは聖書全体がキリストを証言していることを意味する。そして、ペテロはその時の「ご威光の目撃者」であるから、その事実を証言するだけでよいのである。
17節 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
   イエスは父なる神から「ほまれと栄光」を受けられた。イエスは神によって生まれた御子であり、永遠の昔からおられる神ご自身であり、人となって世に生まれ、世の罪を取り除くキリスト、救い主なのである。このことをペテロは証した。イエスがはっきりとその確証を高い山でお見せになったのである。
18節 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
   その高い山を「聖なる山」と称する。モーセのシナイ山を意識していただろう。主の栄光と力が現れ、ペテロは「天から出たこの声」を恐れを感じながらも、喜びをもって聞いたことであろう。
19節 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
   「預言の言葉」旧約聖書が予告する救い主とその再臨に関する言葉。イエスの変貌が予告を示すものになり、「確実なもの」になる。世界は依然として暗黒の中にあるが、その状態はキリストの再臨によって真の光がわれわれの「心の中を照らす」ときに終わる。「明星がのぼって」は夜明けを強調することば。主は輝く明けの明星(黙示22:16)のような方であり、また、太陽のように御国が来たら光り輝いておられる方。今は「預言の言葉を暗やみに輝くともしび」として再臨を信仰の目で注視して待たなければならない。
20節 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
   「まず第一に知るべき」ことは、預言解釈の根本原理として、読者の「自分勝手」な聖書解釈はゆるされないということである。
21節 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
   なぜなら、預言は主自ら啓示したものだからである(ルカ24:44-47,黙示5:5)。それで主に仕える僕の証言を用い主が語りたもう場所、すなわち信仰者の群れ、教会においてこそ正しい解釈が許される。その理由は聖霊によって神から語りだされたものだからである。旧約聖書において語る聖霊こそ、聖書を正しく解釈する権威である。

(2020/12/20)


[1]  1ペテロ1:22
  あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい

[2]  マタイ25:14-30
  また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

[3]  ヨハネ21:18-19
  よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

[4]  2コリント5:2-4   そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

[5]  ルカ9:31
  栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。

[6] マタイ17:2-5
  ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。