雪根開き(ゆきねびらき)

 雪解けの地面からフキノトウが顔をだしていた。  開き始めたキクザキイチゲ、まだ頭を持ち上げていない姿が翁草に似ている。

初めての春(2018)

  4月11日、盛岡駅から6時54分発のバスに乗って、八幡平マウンテンホテル前で降りたのが8時半頃。途中まったく消えていた雪が、西根を過ぎて、松尾に近づくころから、林の下にチラホラ見えるようになった。敷地内の積雪もまだ残っていたが、お隣のMさんが除雪機で、入り口から家までの雪かきをしてくださっていたので無事に家に入ることができた。除雪して頂いたおかげで、五日後に車を持ってきた時には、エントランスの雪が消え、まったく支障なく駐車することができた。
  庭に降り積もった雪が、木の周りだけ円形に溶けて、春の訪れを知らせる雪根開き(または根開き)になっていた。(雪と木の光の反射率の違いによる温度差で起きる。)  そして、屋根から落ちた雪が小さな山になっている。その雪が溶けた地面から、薄い緑色のフキノトウが顔を出していた。
それを見て、『古今集』春・21の光孝天皇の
  君がため 春の野に出でて 若菜摘む
   我が衣手に 雪は降りつつ
を連想した。詠み人の細やかな心遣い、情感、そして雪の白と若菜の緑の色彩的な対比が美しい。ただその時まで、今一つ、雪と緑の季節感に腑に落ちない気持ちがあった。しかし、春の七草ではないが、図らずもこのフキノトウと雪を見て、実感を得たのだった。
  フキノトウを刻んで、みそ汁や蕎麦に散らすと春の香りを楽しむことができる。でも、なんといってもふき味噌だ。県民の森に行ったら、松の木の下にフキノトウが沢山出ていたので、早速摘んで、どんぶり一杯のふき味噌を作った。その後、ふき味噌を冷凍保存すると一年持つということを知り、もう一度松林に行って、フキノトウを収穫して保存用に鍋一杯のふき味噌を作った。さらに、Mさんに夕食に招かれたとき、手作りの味噌を頂いたので、再びフキノトウを摘んできて、ふき味噌を作った。そういう訳で、都合三回のふき味噌作りを楽しんだ。
  すべての松は落葉しない常緑樹と思い込んでいたが、カラマツが落葉するということをここで初めて知った。柔らかな葉が降り積もったカラマツ林の中を歩くと厚いカーペットを踏むようにふかふかする。カラマツの枝を見ると薄緑色の若い芽が出ていた。
  松の木の下には、フキノトウの他にキクザキイチゲが咲いていた。私はこれを葉の形と開ききっていない花とから、翁草と勘違いしていた。しかし花弁の数が違うので、県民の森の森林ふれあい学習館に聞いたら、キクザキイチゲということであった。この花は木の下よりは、日光が良く当たる広い場所を好むようで、林を出て広大なみんなの広場行くと小さな花畑のようにあちこちに集まって咲いていた。
  ミズバショウ園の池では、ミズバショウが沢山咲いていた。降り口に残雪が積もっていたが、幸いゴム長を履いていたので下まで降りて写真を撮った。

  以上が最初の一週間



 キクザキイチゲ

 ミズバショウ  白樺林でクロッカスが咲いていた。

野の花を見よ(2018)

  春の八幡平市内を車で走るのはとても楽しい。家々の庭先や畑の淵、道路わきでは、様々な春の花が咲き、百花繚乱の明るさだ。華やかな賑わいの桜、白やピンクの絨毯を大地に広げたような芝桜、路傍を明るく照らす軽やかな白や黄色の水仙、すっきりした立ち姿の赤や黄色のチューリップ。 丹精込めて育て上げた人々の気持ちがうれしい。こんなにも沢山の花を同時に咲かせるのは、どんなに大変なことだろうかと感心する。

 こうした人里に咲く花とは別に、林の中や草原に夢のように咲いている野生の花を見ると、人の手によらない混じりけのない繊細な美しさに心を打たれる。

  「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
新改訳聖書(1970年版) マタイの福音書6章28節

  栽培種の美しさがメークによるものとしたら、働きもせず、紡ぎもしない野の花の美しさは素肌のものだろうか。それと野の花が美しいのは、舞台によるところも大きいように思える。キクザキイチゲは、雪融け後の枯れ草の草原や松林の中に咲いているからこそ可憐に見えるし、ミズバショウは空を映す水辺が似合っている。もし花壇に植え込まれていたり、屋敷の池に植えられていたりしたら、自然の中で咲いている姿ほどには美しく感じないのではないだろうか。 クロッカスが、白樺林の中で咲いているのを見つけた。ランダムに咲いている様子は、花壇の中の造形美と異なる伸びやかな愛らしさを感じる。栽培種の花の中には野に置くと美しさを増すものがありそうだ。バラの原種に近いダマスクローズは間違いなくそれだと思う。

  斉藤萬七先生訳のリルケの詩、オルフォイスへのソネット第2部5の中に「アネモネが草原の朝を押し開く」と云う一節がある。リルケにあっては自然、即ち大地であり、彼は美しいアネモネをして大地の生命力を賛美せしめている。春の草原に咲くキクザキイチゲを見たとき、この一節が心に浮かんだ。調べてみたら、キクザキイチゲの学名は、Anemone pseudoaltaicaだった。何冊かの本を八幡平に持ってきたが、この詩集を沖縄に置いてきてしまったので、再読がかなわないのが残念だ。斉藤先生の訳が最も美しく、原典の趣旨に忠実であるように思える。 (2018/04/22)



 頂上登頂口付近のアスピーテライン

 凍った八幡沼

春の八幡平山頂(2018)

  4月になると雪に閉ざされていた八幡平国立公園のアスピーテラインが除雪され、雪の壁を通って、八幡平山頂の登山口のある見返り峠まで車で行くことができるようになる。27日の朝9時頃、見返り峠手前の無料の駐車場に車を止め、トレッキング用の靴に履き替え、ダウンジャケット、ネックウォーマー、スパッツを付け出発した。雪の上に立てられた旗を目印に進む。夏の登山道と違い、低い木は雪の下に埋もれているので、見通しが良く、足を踏み外さなければ夏よりも歩きやすい。実は前日も行ったのだが、霧で視界が悪く風も強かったので途中で断念した。

  頂上の展望台は、降り積もった雪のため、低く見える。周りの景色は雪と木だけで代わり映えしないが、沼が凍っていたり、風雪に耐えかねた松の木が倒れていたるのを見ると冬季の天候の猛烈な厳しさが想像される。

  雪渓を歩くのは、かなり久しぶりだったが、空気は冷たいものの歩いていると軽く汗ばむ好天気で、起伏も少なく存外楽に歩けた。スノーシューを付けてトレッキングポールを使い、息をハーハーさせながら歩いている人がいた。この季節は、新雪が積もることは少なく、表面が溶けて凍っているのでスノーシューは必要ないと思うのだが。
   (2018/04/28)



 岩手県民の森

 岩手県民の森

桜咲く(2018)

  「ほら、冬は過ぎ去り、
   大雨も通り過ぎて行った。
   地には花が咲き乱れ、
   歌の季節がやって来た。
   山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」
   新改訳聖書(1970年版) 旧約聖書雅歌2章11-12節

  桜が咲かないと本当の春になった気がしない。盛岡よりも2週間遅れて、4月30日に八幡平の県民の森の桜が咲いた。 県民の森の桜は、その多くがヤマザクラ、オオヤマザクラで、花は薄い紅色のものが多い。赤い小さな葉が花と同時に出てくる。今年は、いつもより散るのが早いような気がするが、暖かい日差しの下、若草色の草原のそこかしこにできた白と青のキクザキイチゲの花畑と薄紅色の山桜は、まさに歌の季節。
  上坊牧野の一本桜は、県民の森の桜よりさらに遅く5月6日に見ごろになった。
(2018/05/06)



 ハクサンチドリ (2018/05/23)

 出来上がったスミレシロップ                                           ヤマオダマキ (2018/06/05)                                           ナナカマド (2018/05/22)

春から初夏へ(2018)

  5月から6月にかけての野山の変化の速さは、沖縄のヤンバルと比べると雲泥の差がある。田んぼ沿いにタンポポがこの世の春とばかり咲き誇っていると思っているうちに、たちどころにイタドリにとって代わられたり、松林のフキノトウがキクザキイチゲの一軍に占領された後、気が付いたら一面のフキに覆われていたり、ツクシが出ていたスキー場の地面がムラサキツメクサとタンポポで一杯になった後、背の高い草にうずもれたりと選手交代が激しい。
先手必勝の精神で、まだツクシが生えているうちに、沢山摘んで油揚げと一緒に煮ものを作った。美味しかったし、ツクシはブロッコリーよりも多くのカロテンを含み、ビタミンEは野菜界ではトップクラスなのだそうだが、如何せんアク抜きやはかまを取り除く作業が面倒だ。材料はスキー場に沢山生えているでいくらでも収穫できるのだが一回でやめた。どうしようかと逡巡しているうちに穂が開いてしまう。
高山に群生するハクサンチドリが県民の森に一輪咲いているのを見つけた。翌週もう一度その場所に行ったら影も形もなかった。
松林の外の広い草原のそこかしこに小さな花園を作るように賑やかに咲いていたキクザキイチゲは結構長く楽しめたが、5月中旬には丘そのものの姿が変わったかのように見事にいなくなってしまった。
油断できない。今年見逃がすと一年待つことになる。ヤンバルのテンポではだめなのである。車で10分圏内にあるカタクリの花は来年に持ち越しだ。

  スミレは品種で交代しながら長く楽しめる。紫のスミレが咲いていた場所が、寂しくなったと思っていたら白いニョイスミレ(あるいはタチツボスミレ)が咲き誇っていたりする。大方のスミレの仲間の花期が終わったころに咲くので「最後のミスレ」と呼ばれる。花弁が小さいので咲き始めの頃は、見つけ出しにくいが、下向きの花弁にはっきりした紫の筋が入り可愛らしく写真写りが良い。山部赤人の「春の野に 菫摘みにと 来(こ)し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜宿(ね)にける」のスミレはニョイスミレという説がある。

  5月の朝6時、沖縄ではまだ薄暗いが、八幡平では明るい朝日に岩手山の白い雪が輝く。朝食の弁当とカメラを持って七滝に向かう。ブナや白樺の葉は、まだ開ききっていないので、夏なら鬱蒼としている林道が朝の日差しに明るく、足取りも自然に軽くなる。その若い緑の林越しに遠方の山の白い雪が輝き、早春の花、ツツジ科のムラサキヤシオが一枝咲いていた。岩手山登山口から歩いて30分位の林道と登山道の分かれ道に薄紫のシラネアオイが咲いていた。この花は1属1種の日本特産とのこと。4弁の美しい薄紫の花びらのように見えるのはガクで、この花には花弁が無いのだそうだ。それでも美しさに変わりはない。ヤンバルのノボタンを思わせる気品がある。
  そして、その分かれ道までの林道の日当たりのよい道端に薄紫のスミレが群生していた。 国内に40から70種あるといわれるスミレを素人が見分けるのは難しいが、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」のスミレは、個人的な印象としては、紫色のノジスミレのような気がする。 滝からの帰路、それらのスミレの花を摘み取って小さなポリ袋に入れて持ち帰り、グラニュー糖でシロップを作った。(レモン果汁でピンクっぽくなった。) 出来上がったスミレシロップを炭酸水に入れるとほんのりと春の香がする不思議な飲み物になる。 (2018/05/21)

 「妖精がいて?」物思わしげにエミリーがたずねた。
 「森の中にいっぱいいるよ」と、いとこのジミーが言った。「古い果樹園におだまきが生えている。妖精のためにわざわざおだまきを植えているんだよ」(ルーシー・モード・モンゴメリーの自伝的作品「可愛いエミリー」から。)
6月はヤマオダマキが楽しめる。この花は路傍や我が家の庭にも咲く。オダマキは園芸種も多いが、自生する花は、サイデンステッカーの自伝で「奇跡的と言いたいほどの美しさ」と評しているように格別と思う。その本の中に記されている花の色は、確か紫と白だったと思うがどんなオダマキだったのだろう。この辺に自生するヤマオダマキは、紫と黄色の花をつける。

  この時期はチゴユリ、ギンラン、アヅマギク、エイレンソウなどの野草の他に、ナナカマド、トチ、ウツギなどの木の花やカラマツの若い松ぼっくりも美しい。ただ敷地内に何本かブナの木があるが、花粉とともにその花が車に盛大に降り注ぐので甚だ迷惑である。(2018/06/30)



 ドラゴンアイ (2018/06/07)

 早朝の岩手山 (2018/06/07)

ドラゴンアイ(2018)

  5月の下旬から6月の上旬にかけての期間、八幡平山頂付近にある鏡沼の雪が解け、竜の目の様に見えるためドラゴンアイと呼ばれている。その年の積雪量や雪解け状況、天候などで時期や見え方が変わる完全自然依存の景観だ。

  朝は空いているだろうと、6月7日の早朝5時に家を出た。アスピーテラインを30分余りドライブし、見返り峠の無料駐車場で靴を履き替え鏡沼まで徒歩20分余り。 途中降りてくる何組かのハイキング客とすれ違った。ずいぶん早く来る人達がいるものだ。 雪解けが進んだ登山道は、若いフキノトウが出ており、山頂にも春が来ていた。薄紅色の葉と花のミネザクラが可愛らしい。ガクアジサイに似たオオカメノキが咲き始めていた。そして日当たりが良いところには、早々とベニバナイチゴが鮮やかな赤い花を付けていた。

  今年のドラゴンアイは、竜の目玉というより鯉のぼりの目玉のように見えた。 ブルーと緑がかった雪解け水が綺麗だが、雪が汚れているのがちょっと残念。 帰路レストハウスの駐車場近くの道路沿いにまだ小さいノビネチドリの赤紫の一輪を見つけた。 駐車場に戻ったのが6時半頃。遠く朝靄にかすむ岩手山の淡いブルーのシルエットが秀麗だ。

  山を下り、麓の八幡平ビジターセンターに車を止め、朝日が暖かい広場で朝食の弁当を食べた。弁当をタオルに包んで保温すると気温が低くても美味しい。200m程離れた道路の真ん中に狐が一匹立って、しばらくこちらを見ていたが、やがて林の中に入っていった。
 (2018/06/07)



 ヤマボウシ (2018/07/01)

 ヤマアジサイ (2018/07/06)

 梅雨の中休みの夜 岩手山の上に登る火星、そして銀河 (2018/07/11)

梅雨(2018)

  気象庁の発表によると2018年の東北北部の梅雨入りは、6月11日で平年より3日早いとのこと。

  ヤマボウシの落ち着いた白い総苞片が、梅雨空に美しく映える。山に自生するヤマボウシと異なり、道路沿いに植えられたヤマボウシは、いくつかの品種があり、濃い緑の葉が隠れるほどに花開き木全体が純白になるものがある。これまで見た沿道や庭先のヤマボウシの花は白のみだったが、山に咲くものには薄いピンクのものがあった。

  ウツボグサの落ち着いた紫色の花弁は、まぶしい陽光の下よりも梅雨の曇り空の下の方が、高貴な感じに色が引き立つ。

  公園の沿道に小さなホタルブクロが咲いていた。子どもが袋のような花にホタルを入れて遊んだことに由来するそうだが、この時期に庭に蛍が飛んでくる。隣の方によると例年は7月に入ってから出始めるのだが、今年は最初に見たのが6月26日だそうだ。一週間ぐらい早い。森林に生息するヒメボタルで車のウィンカーのように力強く点滅する。そのため写真に撮るとゲンジボタルやヘイケボタルのように光の線にならず、点状の光の軌跡として写る。夜8時頃に出始めて10時頃にはいなくなる。7月10日頃に姿を消したので、蛍の浮遊を見れるのは2週間位か。

  梅雨空に似合う花と言えば、やはりアジサイだろう。この花に似たシモツケもいい。ヤマアジサイとガクアジサイは厳密には違うそうなのだが、花を見ただけでは区別がつかない。ヤマアジサイの葉は光沢に乏しく、先端が細く尖るのだそうだ。周辺のガクの部分に囲まれた中の小さな花が開いた様子は大変美しい。雨に濡れた姿はまるで宝石のようだ。

  雨に濡れたノリウツギの白い花と濃い緑の葉のコントラストも美しい。森林に咲く花には白いものが多いような気がする。ギボウシの花もこの季節に木の下で雨粒を滴らせて風情があるし、線香花火のようなカラマツソウの白い花も可憐だ。雨は鬱陶しいが、きらりと光る雨の粒が野の花を清楚に演出しくしてくれる。

  無論、梅雨の期間も晴れるときもある。しかし、雲一つなく晴れた夜に遭遇するのはかなり幸運だ。7月11日の夜はその幸運に恵まれた上に、月が出ていなかったので、星空を撮ることができた。岩手山の東に明るく輝く火星が昇り始めていた。火星は肉眼だとオレンジ色がかって見えたが、他の星に比べてかなり明るいので、写真に撮ると白く広がった。天の川も綺麗に写り、今にも「銀河ステーション、銀河ステーションと云う声」が聞こえてくるようだ。火星は明るさを増し、7月31日に15年ぶりの大接近を迎える。(2018/07/19)



 安比高原 不動の滝 (2018/07/26)

 安比高原 不動の滝の渓流 (2018/07/26)

 釜石環状列石 (2018/07/26)

夏来たる(2018)

  気象庁の発表によると例年よりも8日早く7月20日に東北北部の梅雨が明けたとのこと。

  7月26日の朝、弁当を作って安比高原の不動の滝に向かった。同名の滝は全国に何カ所かあるが、八幡平市の不動の滝は、瀬織津姫を祀る桜松神社の境内奥にあり、日本の滝百選と岩手の名水二十選に選ばれている。爽やかな夏の朝、安比高原スキー場方面に国道282号線を目指して30分ほど車を走らせる。国道に出るまでは、山間の道路なので見晴らしはあまりよくないが、沿道はよく刈込まれており、緑が綺麗な樹木と青く澄み渡った空の下を走るのは気持ちが良い。所々、瀟洒なペンションやホテルが芝生と白樺に囲まれて建っている。国道に出て10分位の不動の滝の看板と大きな鳥居が見えるところで右折する。そこからすぐかと思いきや、さらに10数分進み、ようやく桜松神社の駐車場に出た。途中アジサイ園があり、本アジサイが綺麗に色づいていた。駐車場から滝までは、鳥居をくぐって境内を進むか、鳥居の手前で左に折れ、渓流沿いの遊歩道に出るかを選べる。不動の滝は、高さが15メートルほどしかないが、幅が広く豊富な水量が垂直に落ちる美しい滝だ。 苔むした岩の間を白く泡立てて流れる渓流も美しい。さすがに滝百選に選ばれるだけある。神社の中にあるので、滝の前には赤い橋が架かっている。
  駐車場に戻り、神社に隣接する桜松公園で朝食のサンドイッチを食べながら読書する。公園は山の傾斜を利用しており、遊歩道、東屋、ベンチがあり、小規模ながらバーベキュー用のかまどもある。時折、鶯のさえずりが聞こえるほかは人工の音が聞こえない。誠に快適な夏の開始だ。

  安比高原からの帰路、かしわ台のさくら公園に寄った。この辺りは旧松尾村寄木の釜石地区に当たり、ここで昭和28年に縄文末期(2,500~2,600年前)のストーンサークルが発掘調査された。発掘現場は埋め戻され松林となったが、隣接するさくら公園にレプリカが復元されている。環状列石の周囲には住居跡も発見され、付近からは亀ヶ岡式の土器、土偶、土版、石版、石器などが見つかった。説明板によると環状列石群の中央のものは直径12mもある大きなもので、その中央には直径1.5mの石囲いがあり、火を焚いた後があったという。祭壇状の石敷きに立ち真南を見ると、中央部の石組みの延長上に岩手山の山頂部が見通せるそうで、見に行った日は、草が生い茂って全体像を掴めなかったものの、古代のロマンを感じるには十分な遺跡だ。2,500年前にここで生活を営んでいた人たちが見た岩手山はどんなだったろう。岩手山は1600年代から数回噴火を繰り返した成層火山だし、焼走り溶岩流ができた噴火が1700年代ということは、縄文の人たちが見ていた岩手山は、今のものとはかなり違っていたのではないか。
  さくら公園は、家から車で10分位のところにあり、静かな木陰があるので、お昼時に弁当と本を持って読書に行く。さくら公園のはす向かいに松尾八幡平物産館と松尾八幡平ビジターセンターがある。物産館では地元農家が作った野菜の直売をやっており、夏はトウモロコシやブルーベリーが並ぶ。この辺にはトウモロコシを大規模に栽培している農家が多い。都会では流通コストの分どうしても高くなってしまうが、ここでは気楽に買えるので久しぶりに甘いコーンを存分に食べ、ブルーベリーで存分にジャムを作った。
(2018/08/05)



 白いブナ林 (2018/07/30)

 奥のまきばにて (2018/07/30)

安比高原ブナの二次林(2018)

  ブナは攻撃的と評されるほど旺盛に繁茂する強い木だ。安比高原のブナは薪炭や漆器の材料にするためほぼ完全に伐採されてしまったが、1ヘクタール当たり1本の木が残されたという。それらの木が親となり、種子が落下して一斉に発芽、生育し再生して再び森林になった。このような森林を二次林という。

  7月30日、安比高原のブナ二次林と黒滝を見ようと7時35分に出発した。30分程安比高原スキー場方面に車を走らせ、林道に入り数分、休憩所のぶなの駅に8時10分到着。そこで散策路の地図が載っているパンフレットをもらう。そのパンフレットによると安比高原のブナの二次林は、森林浴の森日本100選と遊歩百選に選ばれているとのこと。ぶなの駅から二車線幅の砂利道が続き、さらに車で進めるが、森林浴を楽しみながら歩くことにする。30分程歩くと視界が開け、奥のまきばに入る。夏の朝の澄み切った青空の下、緑の草原が広がり、そこかしこに沼と花畑が点在している。この季節は湿地の花であるタチギボウシの薄紫とミズギクの黄色が草原の緑と青い空を映した鏡のような沼に映え、なんとも幸せな気持ちになる。可憐なヤナギランもそこかしこに咲いている。
  奥のまきばを抜けて、再びブナ林に入り下っていくと黒滝に着く。鬱蒼とした林の中、その名の通り黒い岩を水が幅広く豪快に流れ落ち、勢いよく流れる渓流になっている。下まではかなり険しく、渓流のところまでは降りることが出来ない。ここで写真を撮っていたら、9時を過ぎていたので、朝食の弁当にする。1時間近く歩いていたので、ちくわのかば焼きの弁当が美味しい。クックパッドで見つけたレシピで、簡単に作れるので弁当に便利だ。行きは砂利道の車道を通ったが、帰りは二次林の中の遊歩道を歩いた。道が曲がりくねり、下り坂だが往路よりも時間がかかった。ぶなの道の駅が見える沿道で、濃いオレンジ色の車百合を見つけた。

  安比高原のブナの二次林は181ヘクタールとかなり広い。ブナは黄色く紅葉するので秋はさぞかし綺麗だろう。落葉する季節には、周囲の山にも登ってみたい。
帰宅後写真を整理していたら、湖沼群と花に気を取られて、ブナ二次林の写真をそんなに撮っていなかったことに気が付いた。(2018/08/06)



 大接近の火星と銀河付近の土星 (2018/07/31)

 宵の空に浮かぶ木星 水平方向に左右に二つずつガリレオ衛星が見える(2018/08/03)

夏の天空散歩(2018)

 7月31日に火星と地球が最接近した。火星と地球は約2年2か月ごとに接近するが、火星の軌道が楕円であるため最接近時の距離は約6000万kmから約1億kmまで大きく変化する。今回の接近距離は約5800万kmの大接近で、マイナス2.8等級の明るさで輝いた。 肉眼ではオレンジ色に見えるが、これだけ明るいと写真では白く広がる。この時期、幸運なことに火星の他に土星と木星も見やすい位置にあって楽しい夏の夜になった。マイナス4等級の宵の明星になっている金星は早々と沈んでしまう。
 視直径が火星の倍の大きい木星は、南西の低い位置でマイナス2等級で輝いている。私の150mmの小型の望遠レンズで、4つのガリレオ衛星を従えた宵の空に浮かぶ真珠のような木星を捉えることができる。ガリレオガリレイが倍率20倍の小さな屈折望遠鏡で、木星の衛星を発見した観察の経緯を、彼の著書を翻訳した岩波文庫の「星界の報告」で読むことができるが、その精緻な観察と洞察力には驚かされる。

 「神は牡牛座、オリオン座、すばる座、
 それに、南の天の室を造られた。」
 新改訳聖書(1970年版) 旧約聖書ヨブ記9章9節

 聖書に登場するこれらの星座は冬の星座だが、日本聖書協会口語訳聖書(1955年版)では、牡牛座が北斗になっており、白鳥座、夏の大三角、さそり座、カシオペアなどともに、誰にでも容易に見つけることができる夏にも見えるおなじみの星座だ。この季節は北西の空にかかっている。

 星を見るときは大抵県民の森の広い草原か松尾八幡平ビジターセンターの駐車場に行く。そこで360度の広い星空を仰いでいると、宇宙と一体化して星空に浮かんでいるような不思議な感覚に時々襲われる。(2018/10/31)



 紅葉が散り積もった山道 (2018/10/26)

 秋の光と影 (2018/10/26)

 木漏れ日に浮かぶ色鮮やかな落ち葉 (2018/10/05)

秋の光と秋の影(2018)

  人に出会うことがない静かな山道を散り積もった紅葉を、踏み分けながら独り歩いていく。そういうときは世のしがらみを微塵も感じない至福のひととき、贅沢の極みだ。

 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
 聲きくときぞ 秋はかなしき
   小倉百人一首5番 猿丸太夫(古今和歌集 読み人知らず)

奥深い山の手付かずの木々が、人知れず赤や黄に染まり、やがて静かに散ってゆく。しんとした古今和歌集的な美の世界がそこにある。神社仏閣や日本庭園の計画された調和の造形美は、確かに美しいが、私としては無造作な雑木林の中の遠慮も気どりもない紅葉が好みだ。

 秋は世界が赤、黄、橙の暖かい色に包まれ幸せな気持ちになる。鬱蒼とした林に挟まれた山道を登って行く先が曲り道になっていて、前方の木々が黒い影になっている。その木々の後ろから明るい秋の日が差し込み、紅葉した枝が黄金に輝く様はことのほか美しい。葉の後ろから差す明るい光と、木の幹や枝の影の明暗の差異と色の対比が秋の装いの美しさを際立たせる。地面に散った楓の葉が木漏れ日に明るく照らし出される様子もよい。木の影と異なり、木漏れ日は、ピンホールカメラのように木の葉の間を通る光が屈折するので、周辺がボケてソフトになる。赤や黄の落ち葉が、その穏やかなスポットライトを浴びて、暗い林の中から浮かび上がる。 秋になり、太陽が低くなって気が付いたのだが、この辺は沖縄よりも緯度がおよそ14度も高い。そのため影がことさら長く感じる。まぶしさが抑えられるためか、明暗がはっきりするためか、草も木も花もすべての物が混じり気が無い空気の中で、輪郭がくっきりと目に優しく美しく映る。秋は影によって光の美しさが引き立ち、光によって影の美しさが引き立つ。

 今年の秋は、二つの台風が通過してこの季節にしては暖かい強風が吹き荒れ、その風で吹き飛ばされた葉が多く、寒さが緩かったことと相まって、紅葉の始まりは昨年と同じだったが、その後の進み方が遅く、やっと10月後半になって見頃になった。白樺の葉は、台風の時に大方が吹き飛ばされ、黄色く残った葉はほとんどなく、カエデの紅葉も去年に比べて寂しいものになった。暖かかったためかドングリが豊作で、敷地内のコナラの木にもいっぱい実がつき、これが台風通過の夜、機銃掃射のように屋根に落ちてきてガンガンと大きな音がした。翌朝庭と道路に大量のドングリが落ちていた。県民の森には椎の実が沢山落ちていたが、あく抜きに手数がかかるせいか拾っていく人がいない。昨年は赤い葉と熟れた実が美しかったヤマボウシの実が、今年は萎れてみすぼらしく枝にぶら下がっているか風に吹き飛ばされていた。岩手山の初冠雪は、昨年より23日遅い10月28日だった。  (2018/11/08)



 銀のススキの穂 安比高原 (2018/10/08)

 めくらぶどう 岩手県民の森(2018/10/10)

 まぶしそうに笑う山 岩手県民の森 (2018/10/05)

 めくらぶどう 岩手県民の森(2018/10/10)

 虹 沖縄県国頭郡 (2000/07/14)

 虹のように熟れためくらぶどう 岩手県民の森(2018/10/10)

めくらぶどうと虹
 宮沢賢治

  城あとのおおばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟は刈られました。
 「刈られたぞ」と言いながら一ぺんちょっと顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。  崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立っています。
 その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶどうの実が虹のように熟れていました。
 さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向こうの山は暗くなりました。
 そのかすかなかすかな日照り雨が霽(は)れましたので、草はきらきら光り、向こうの山は明るくなって、たいへんまぶしそうに笑っています。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にとまりました。
 めくらぶどうは感激して、すきとおった深い息をつき、葉から雫(しずく)をぽたぽたこぼしました。
 東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のようにやさしく空にあらわれました。
 そこでめくらぶどうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。
 そうです。今日こそただの一言でも、虹とことばをかわしたい、丘の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美しい虹にささげると、ただこれだけを伝えたい、ああ、それからならば、それからならば、実や葉が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠りにはいっても、あるいはそのまま枯れてしまってもいいのでした。
 「虹さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫びました。
 やさしい虹は、うっとり西の碧(あお)いそらをながめていた大きな碧(あお)い瞳を、めくらぶどうに向けました。
 「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶどうさんでしょう」
 めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉のようにプリプリふるえて輝いて、いきがせわしくて思うように物が言えませんでした。
 「どうか私のうやまいを受けとってください」
 虹は大きくといきをつきましたので、黄や菫(すみれ)は一つずつ声をあげるように輝きました。そして言いました。
 「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか」
 「私はもう死んでもいいのです」
 「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若いではありませんか。それに雪が降るまでには、まだ二か月あるではありませんか」
 「いいえ。私の命なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死にます」
 「あら、あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変わりません」
 「いいえ、変わります。変わります。私の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうずまって白くなってしまいます。枯れ草の中で腐ってしまいます」
 虹は思わず微笑(わら)いました。
 「ええ、そうです。本とうはどんなものでも変わらないものはないのです。ごらんなさい。向こうのそらはまっさおでしょう。まるでいい孔雀石(くじゃくせき)のようです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはいりになりますと、あすこは月見草の花びらのようになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
 そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」
 「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います」
 「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極(きわ)みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」
 「私を教えてください。私を連れて行ってください。私はどんなことでもいたします」
 「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません」
 停車場(ていしゃじょう)の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違いになったばらばらの楽譜のように、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶどうは高く叫びました。
 「虹さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください」
 虹はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
 そして、今はもう、すっかり消えました。
 空は銀色の光を増し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子はずれの歌をうたいました。
 (2018/11/12)


「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
新改訳聖書(1970年版) マタイの福音書6章28節

「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」
新改訳聖書(1970年版) ヨハネの福音書12章35~36節